ウィリアム3世_(イングランド王)
[Wikipedia|▼Menu]

ウィリアム3世
ウィレム3世
William III
Willem III
イングランド国王
スコットランド国王

在位オラニエ公:
1650年11月4日 - 1702年3月8日
オランダ総督:
1672年6月28日 - 1702年3月8日
イングランド王・スコットランド王:
1689年2月13日 - 1702年3月8日
戴冠式イングランド王・スコットランド王:1689年4月11日
別号アイルランド国王
オランダ総督
オラニエ公

出生 (1650-11-14) 1650年11月14日
ネーデルラント連邦共和国、ビネンホフ宮殿
死去 (1702-03-08) 1702年3月8日(51歳没)
イングランド王国ケンジントン宮殿
埋葬 イングランド王国ウェストミンスター寺院
配偶者メアリー2世
家名オラニエ=ナッサウ家
王朝ステュアート朝
父親オラニエ公ウィレム2世
母親メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート
サイン
テンプレートを表示

ウィリアム3世(William III, 1650年11月14日、旧暦表記では11月4日 - 1702年3月19日、旧暦表記では3月8日[1][2])は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、オランダ総督(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド国王スコットランド国王アイルランド国王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。スコットランド王としてはウィリアム2世。オランダ名ではウィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。

父はオランダ総督・オラニエ公ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート。イングランド女王・スコットランド女王・アイルランド女王メアリー2世は従妹かつ妻であり、共同統治した。オラニエ=ナッサウ家の出身であるが、ステュアート朝の王の1人に数えられている。
生涯
幼少期

1650年11月4日(新暦表記では14日)、オランダ総督・オラニエ公ウィレム2世とイングランド王チャールズ1世の王女メアリー・ヘンリエッタ・ステュアートの一人息子としてハーグで生まれた。曾祖父に当たるネーデルラント連邦共和国(オランダ共和国)独立の英雄ウィレム1世(沈黙公)に始まるオラニエ=ナッサウ家は、南フランスオランジュオランダ語でオラニエ、英語でオレンジ)、オランダドイツ中西部のナッサウに領地を持ち、オランダでも最有力の貴族で、ウィレム1世以来共和国の主要州で総督(統領ともいう)を務めていた。

オランダ総督であった父はウィレム3世が生まれる8日前に天然痘で死去した。生まれた時に父が死んでいたため、ウィレム3世は出生と同時に家領のオラニエ、ナッサウを継承、母と祖母アマーリエ・叔母ルイーゼの夫であるブランデンブルク選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムが後見人となった。

しかし、オラニエ家が総督職を世襲することに反対する、ホラント州法律顧問のヨハン・デ・ウィットを始めとする共和派は、ウィレム3世の総督就任を認めなかった。そして、祖母と共同の後見人だった母が清教徒革命でイングランドを追われた兄のチャールズ(後のチャールズ2世)・弟のジェームズ(後のジェームズ2世)を援助するのに対して、共和派の連邦議会が1654年に第一次英蘭戦争イングランド共和国ウェストミンスター条約を締結して和睦、互いにステュアート家とオラニエ家の援助を禁止すると取り決めた。そのため、母は政治から遠ざけられ、ウィレム3世は共和政府に引き取られることになり、オランダは共和制の下で無総督時代に入った。

1660年には王政復古の祝福でイングランドへ渡海した母も死去、ウィレム3世は共和政府と妥協した祖母の下でデ・ウィットの教育を受けて成長したが、共和政府は成人後もしばらくはウィレム3世の総督就任を認めなかった。幼くして両親を亡くし、名門貴族の当主として育てられたウィレム3世は寡黙で慎重な性格を身に付けた[3]
オランダ総督

オランダとフランス1662年から同盟を結んでいたが、貿易上の対立とルイ14世スペイン領ネーデルラント併合の野望から起こったネーデルラント継承戦争で危機感を抱いたデ・ウィットは、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルと組んで1668年にイングランド・スウェーデン三国同盟を締結、戦争を終結させた。しかし、1670年にルイ14世はチャールズ2世とドーヴァーの密約を結び、神聖ローマ帝国の諸侯のほとんどとも同盟・中立関係を築き、1672年にスウェーデンとも仏瑞同盟を結んでオランダ包囲網を築いたため、オランダは孤立した。また、ウィレム3世の支持者による突き上げから、デ・ウィットはウィレム3世を陸軍総司令官に任命したが、総督への就任は認められないままであった。

1672年、フランス軍がオランダに侵攻し、オランダ侵略戦争が開始される。オランダの大半が占領され、アムステルダムも占領の危機に瀕すると、民衆がウィレム3世の総督就任と共和政府の打倒を叫び、ウィレム3世が総督に就任、デ・ウィットとその兄コルネリス・デ・ウィットが暴徒によって殺害され、無総督時代が終焉した。それまでオランダのブルジョワ政治家たちに排斥されて総督の世襲を阻まれていたウィレム3世であったが、就任後の1673年オーストリアスペインと同盟を結んで逆にフランスを包囲する形勢を作り、フランス軍への徹底抗戦を貫き、オランダ国内で抵抗を続けた。その後、オランダを出てオーストリアの将軍ライモンド・モンテクッコリとドイツで合流し、フランス軍の補給基地ボンを落とし、同年のうちにフランス軍を撤退させた。これ以降、ウィレム3世はルイ14世の仇敵となる。

戦争はスペイン領ネーデルラントへと移り、ウィレム3世は同盟軍を率いてフランスの将軍コンデ公ルイ2世とリュクサンブール公フランソワ・アンリ・ド・モンモランシーとネーデルラントで戦った。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:91 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef