ウィリアム・S・ギルバート
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W・S・ギルバート

ウィリアム・シュベンク・ギルバート(: William Schwenck Gilbert[1]1836年11月18日 - 1911年5月29日)は、イギリス劇作家リブレット作者詩人イラストレーターであり、作曲家アーサー・サリヴァンとの共作になる14の喜歌劇サヴォイ・オペラと呼ばれた)で良く知られている。その中でも有名なのが『軍艦ピナフォア』、『ペンザンスの海賊』であり、歌劇場の歴史でも最も多く公演された作品の1つが『ミカド』である[2]。これらの作品やその他幾つかのサヴォイ・オペラは英語圏の歌劇団、レパートリー劇団、学校、コミュニティ劇団といった枠を超えて度々演じられ続けている。これら作品の台詞は英語の一部となっており、例えば「素早く厳しい罰」、「何、一度も無い?それではほとんど無い!」[3]や、「犯罪に罰を合させよう」がある[4]

ギルバートは『バブ・バラーズ』という軽妙な詩の広範な詩集に、自作のコミカルな絵を添えた作品も書いた。その作品には75以上の劇と喜歌劇、多くの物語、詩、歌詞、コミックやシリアスなものがあった。その劇とト書きの現実主義的スタイルは、オスカー・ワイルドジョージ・バーナード・ショーなど他の劇作家に影響を与えた[5]。「ケンブリッジ英米文学史」に拠れば、ギルバートの「抒情的な腕前と韻律に精通していたことが、喜歌劇の詩的な質を以前には到達されていなかった、さらにそれ以後も到達できていない地位に上げた」としている[6]
生い立ちと初期の経歴
生い立ち

学識のある判事がこの文を発音するや否や、貧しい魂が屈んだかと思うと、重い靴を取り、私の頭目がけて飛んできた。彼女のためにした私の雄弁に対する報奨としてだった。助言者としての私の能力に対して、また私の防御線に対して、暴言の迸り出の攻撃を伴っていた
? My Maiden Brief
[7]

(ギルバートはこの事件が自叙伝だと主張していた)[8]

ギルバートは1836年11月18日にロンドンのストランド、サウサンプトン通り17で生まれた。父もウィリアムという名であり(1804年-1890年)、短期間海軍軍医を務め、後には小説や短編小説の作家となり、その作品の幾つかは息子によって解説されている。母はトマス・モリスの娘アン・メアリー・バイ・モリス(1812年-1888年)であり、薬剤師だった[9]。両親ともによそよそしく厳格であり、ギルバートはそのどちらとも特に親密な関係を持てなかった。両親は次第に喧嘩が激しくなり、1876年に破綻が来た後、ギルバートの両親、特に母との関係はよりぎすぎすしたものになった[10]。ギルバートには妹が3人おり、その内2人は家族で旅していた間に生まれたのでイングランド生まれではなかった。ジェイン・モリス(1838年イタリアミラノ生まれ - 1906年)は、細密画家のアルフレッド・ウェイガルと結婚した。アン・モード(1845年-1932年)とメアリー・フローレンス(1843年フランスブーローニュ生まれ - 1911年)はどちらも結婚しなかった[11][12]。ギルバートは赤ん坊の頃に「バブ」と呼ばれ、その後父の名付け親に因んで「シュベンク」と呼ばれるようになった[9]

ギルバートが子供の頃の1838年に両親とイタリアに、さらにフランスに2年間旅し、ロンドンに戻って落ち着いたのは1847年になっていた。7歳からフランスのブーローニュで教育を受け(後に日記をフランス語で書いていたので、従僕はそれを読めなかった)[13]、その後ロンドンのブロンプトンにあったウェスタン・グラマースクールで学び、さらにグレート・イーリング・スクールに進んだ。そこでは代表生徒となり、学校劇の戯曲を書き、景色の絵を描いた。その後キングス・カレッジ・ロンドンに進学して、1856年に卒業した。陸軍砲兵隊の任官を得る試験を受けるつもりだったが、クリミア戦争(1853年-1856年)が終わっていたので、新兵はほとんど必要とされず、ギルバートが得られる任官は歩兵連隊のものに過ぎなかった。その代わりに行政職に就くことになった。4年間枢密院事務所の事務官補を務め、その職を憎むようになった。1859年、イギリス防衛のために結成された暫定志願兵部隊である民兵隊に加わり、それを1878年まで務め(その間に著作や他の仕事をした)、大尉の位まで昇進した[14]。1863年、300ポンドの遺産を受け取り、それで行政職を離れ、短期間法廷弁護士を務めたが(既に学生としてインナー・テンプルに入っていた)、この法律実務は1年間平均5人の客しか付かず成功しなかった[15]バブ・バラードの『優しいアリス・ブラウン』にギルバートが描いた挿絵

ギルバートは1861年から収入を補うために、様々な物語、喜劇の吹き出し、グロテスクな挿絵、演劇評論(多くは評論される劇のパロディという形態で書かれた)[16]を書き、「バブ」(子供時代の呼び名)というペンネームで、コミック雑誌数誌のための挿絵入り詩を書いた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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