この項目では、イギリスの詩人について説明しています。イギリスの作曲家については「ウィリアム・ワーズワス (作曲家)
」をご覧ください。ウィリアム・ワーズワス(William Wordsworth、1770年4月7日 - 1850年4月23日)は、イギリスの代表的なロマン派詩人である。湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。同じくロマン派の詩人であるサミュエル・テイラー・コールリッジは親友で、Lyrical Ballads (『抒情民謡集』1798)はコールリッジとの共著であった。英国ロマン主義六大詩人の中では、彼が最も長命で、1843年に73歳で桂冠詩人となり、1850年に80歳で亡くなった。
なお、日本語表記では「ワーズワス」と、後半のシラブルを長音にしないのが最近の国内の学界の慣例である。 ワーズワスは1770年、北西イングランドの風光明媚な「湖水地方」と呼ばれる、現代の国立公園の北西はずれ、コッカーマス(Cockermouth
生涯
湖水地方での生誕から少年時代(1770 - 1787)
1778年、母の死去と共に、ワーズワスの父は彼を兄弟とともに湖水地方の中心部のホークスヘッド(Hawkshead)にあったグラマー・スクールに送るが、この父もまた1783年に世を去った。ワーズワスは幼くして両親を亡くし、コッカーマスの生家も持ち主の貴族に返し、帰る家庭のない孤独な少年時代を送った。しかし妹のドロシーを除き兄弟は皆順序ホークスヘッドに学び、この地で幸福な少年時代を送り、湖水地方の自然とそこで暮らす人々のありようが心の慰めとなった。またグラマー・スクールでは教師にも恵まれ、この時期から英語の詩にも親しみ、すでに自ら創作するようになっていた。
青年期: 湖水地方から外へ: ケンブリッジ、ロンドン、フランス(1787 - 1795)に進学する。在学中大学の褒章や成績にはあまり関心はなかったが、当時大量に中途退学者を出していたケンブリッジの中で卒業までこぎつけた彼は勤勉な学生だったと思われる。しかし学業より詩や自然に思いを募らせていた彼は休暇ごとに湖水地方に帰り、また1790年、ケンブリッジの最後の年の夏季休暇に至ると一人の友人とともにフランスからスイス・アルプスへの主に徒歩の旅をする。この旅で彼が得た印象は、想像以上に厳しいアルプスの自然と、革命下にあるフランス人の生き生きとした様子であった。これらの経験は『序曲』に描かれている。湖水地方への愛を深め、詩人になる決意を確認したのもこのころだった。
大陸旅行から帰国しケンブリッジ卒業後、モラトリアム的な彼はロンドン滞在を経て1791年終わりに再度フランスに渡り長期滞在。当初フランス語の研鑽を目的とした彼であったが、ミッシェル・ボーピュイ (Michel Beaupuy)という革命軍将校と知り合い革命思想を教示されるに至り、フランス革命の熱狂のなかで革命を支持するようになった。しかし「革命」の名のもとに民衆が行った蛮行(九月虐殺)の惨状を見て疑問を感じたが、なおしばらくは革命に希望を持ち続けた。このような革命初期のフランスに滞在したイギリス文人としてはワーズワスが代表格である。しかし彼は後年保守主義的になった。
このフランス滞在中、ワーズワスはボーピュイの他、亡きフランス人医師の遺児、上流階級の年上の女性、アネット・ヴァロン (Annette Vallon) と恋に落ち、彼女は彼の娘を1792年末に出産するが、彼はその前に経済的理由などからイギリスへと一人で一旦帰国した。翌1793年始めにルイ16世の処刑と英仏間開戦があり、ワーズワスはフランスへ戻ることも結婚もできなくなった。彼らはその後10年間会うことはなかった。
ワーズワスはこの後1793年に最初の二作品を出版するが、よい評価は得られず、フランスへも戻れず、開戦の衝撃もあり精神的危機(一般的に彼の モラル・クライシス: Moral Crisis と呼ばれる)に陥る。ロンドンではゴドウィンやフレンドなど、当時の英国の急進派とも接触し、友人や知人を頼り英国国内を転々としたこのころがワーズワスの最もラディカルな時代である。彼はまだ無名だったが、政治パンフレット『ランダフ主教への手紙』(Letter to the Bishop of Llandaff, 1793)も書いたが未完で、当時すでに急進派の取り締まりが始まっており出版もできなかった。