ウィリアム・ワーズワース
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この項目では、イギリスの詩人について説明しています。イギリスの作曲家については「ウィリアム・ワーズワス (作曲家)」をご覧ください。
詩人ウィリアム・ワーズワス(壮年期の肖像画).mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

ウィリアム・ワーズワス(William Wordsworth、1770年4月7日 - 1850年4月23日)は、イギリスの代表的なロマン派詩人である。湖水地方をこよなく愛し、純朴であると共に情熱を秘めた自然讃美の詩を書いた。同じくロマン派の詩人であるサミュエル・テイラー・コールリッジは親友で、Lyrical Ballads (『抒情民謡集』1798)はコールリッジとの共著であった。英国ロマン主義六大詩人の中では、彼が最も長命で、1843年に73歳で桂冠詩人となり、1850年に80歳で亡くなった。

なお、日本語表記では「ワーズワス」と、後半のシラブルを長音にしないのが最近の国内の学界の慣例である。
生涯
湖水地方での生誕から少年時代(1770 - 1787)

ワーズワスは1770年、北西イングランドの風光明媚な「湖水地方」と呼ばれる、現代の国立公園の北西はずれ、コッカーマス(Cockermouth, Cumbria)に、5人兄弟の第2子として誕生した。父親は代々この地の貴族に仕える事務弁護士、母親は東近郊のペンリスで衣料品店を営む商人の娘であったが、母の一族には名門の親戚もいた。ワーズワスは当時典型的なアッパー・ミドルのジェントルマン階級の家庭に生まれたことになる。兄弟は長男のリチャード、詩人となる次男ウィリアム、真ん中の妹ドロシー、弟のジョンと末弟のクリストファーがいて、長兄は父親と同業の事務弁護士となり、弟のジョンは商船の船員になったが1805年に海難事故で逝去。末弟のクリストファーはウィリアムに劣らず優秀でホークスヘッドからケンブリッジ、トゥリニティ・コレッジに進学し、神学博士となり、後半生には高位の聖職者となリ、トゥリニティのフェローを退職まで務めた。

1778年、母の死去と共に、ワーズワスの父は彼を兄弟とともに湖水地方の中心部のホークスヘッド(Hawkshead)にあったグラマー・スクールに送るが、この父もまた1783年に世を去った。ワーズワスは幼くして両親を亡くし、コッカーマスの生家も持ち主の貴族に返し、帰る家庭のない孤独な少年時代を送った。しかし妹のドロシーを除き兄弟は皆順序ホークスヘッドに学び、この地で幸福な少年時代を送り、湖水地方の自然とそこで暮らす人々のありようが心の慰めとなった。またグラマー・スクールでは教師にも恵まれ、この時期から英語の詩にも親しみ、すでに自ら創作するようになっていた。
青年期: 湖水地方から外へ: ケンブリッジ、ロンドン、フランス(1787 - 1795)

1787年、ウィリアムは選ばれてケンブリッジ大学のセント・ジョンズ・コレッジに進学する。在学中大学の褒章や成績にはあまり関心はなかったが、当時大量に中途退学者を出していたケンブリッジの中で卒業までこぎつけた彼は勤勉な学生だったと思われる。しかし学業より詩や自然に思いを募らせていた彼は休暇ごとに湖水地方に帰り、また1790年、ケンブリッジの最後の年の夏季休暇に至ると一人の友人とともにフランスからスイス・アルプスへの主に徒歩の旅をする。この旅で彼が得た印象は、想像以上に厳しいアルプスの自然と、革命下にあるフランス人の生き生きとした様子であった。これらの経験は『序曲』に描かれている。湖水地方への愛を深め、詩人になる決意を確認したのもこのころだった。

大陸旅行から帰国しケンブリッジ卒業後、モラトリアム的な彼はロンドン滞在を経て1791年終わりに再度フランスに渡り長期滞在。当初フランス語の研鑽を目的とした彼であったが、ミッシェル・ボーピュイ (Michel Beaupuy)という革命軍将校と知り合い革命思想を教示されるに至り、フランス革命の熱狂のなかで革命を支持するようになった。しかし「革命」の名のもとに民衆が行った蛮行(九月虐殺)の惨状を見て疑問を感じたが、なおしばらくは革命に希望を持ち続けた。このような革命初期のフランスに滞在したイギリス文人としてはワーズワスが代表格である。しかし彼は後年保守主義的になった。

このフランス滞在中、ワーズワスはボーピュイの他、亡きフランス人医師の遺児、上流階級の年上の女性、アネット・ヴァロン (Annette Vallon) と恋に落ち、彼女は彼の娘を1792年末に出産するが、彼はその前に経済的理由などからイギリスへと一人で一旦帰国した。翌1793年始めにルイ16世の処刑と英仏間開戦があり、ワーズワスはフランスへ戻ることも結婚もできなくなった。彼らはその後10年間会うことはなかった。

ワーズワスはこの後1793年に最初の二作品を出版するが、よい評価は得られず、フランスへも戻れず、開戦の衝撃もあり精神的危機(一般的に彼の モラル・クライシス: Moral Crisis と呼ばれる)に陥る。ロンドンではゴドウィンやフレンドなど、当時の英国の急進派とも接触し、友人や知人を頼り英国国内を転々としたこのころがワーズワスの最もラディカルな時代である。彼はまだ無名だったが、政治パンフレット『ランダフ主教への手紙』(Letter to the Bishop of Llandaff, 1793)も書いたが未完で、当時すでに急進派の取り締まりが始まっており出版もできなかった。この後しばらくワーズワスにとってモラル・クライシスの暗い日々が続いた。
ウェスト・カントリー: ドロシーとの合流とコールリッジとの出会い: ブリストル、レイスダウン、オールフォックスデン、ドイツ(1795 - 1799)

1795年、ワーズワスは英国各地を彷徨した後、ブリストルでサミュエル・テイラー・コールリッジと出逢う。後に二人は意気投合して親友となる。ワーズワスは妹ドロシーと合流し、ドーセットのレイスダウン・ロッジ居住を経て、1797年、サマーセットのコールリッジの住居(Coleridge Cottage, Nether Stowey, Somerset)の近く(Alfoxden, Holford)に転居する。こうしてワーズワスは妹との同居とコールリッジとの親交の中、数段階を経てモラル・クライシスから回復した。

1798年、ワーズワスとコールリッジは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』を共同で著し、出版する。当時の彼らの様々な創作活動の中で、当初軽い気持ちで出版したこの書物は、後に至り英国ロマン主義において画期的となる作品集と評価されることとなる。また第2版の1800年版にはワーズワスの散文の長いまえがきが添えられ、ワーズワスの詩論が表明されているが、これは英国ロマン主義のマニフェストともいわれてきた。なお、このサマーセット滞在の時期にワーズワスとコールリッジが政府のスパイに監視されていたことは有名で、コールリッジ自身の『文学的自叙伝』(Biographia Literaria, 1817) にユーモラスに記録されている。

この後1798年から1799年にかけての冬、ワーズワスはコールリッジ、ドロシーと共にドイツに旅行する。兄妹は間もなくコールリッジとは別れゴスラーに滞在する。ワーズワスは精神の圧迫にもかかわらず、後に『序曲(The Prelude)』と題されるコールリッジに宛てた自伝的長詩の作品を書き始め、また『ルーシー詩篇』を含む多数の代表的な詩を書き、一部は1800年の『抒情民謡集』第2版に収められた。このゴスラー滞在の後兄妹はニーダー・ザクセンのハルツ地方を彷徨するが、4月半ばに至りゲッティンゲンでコールリッジと再会するまでは何をしていたか詳細はわからない。一説に政府のスパイ活動をしていたのではないかという憶測もあったが、その可能性は否定された。
再び湖水地方へ:グラスミア在住(1799 - 1813)

1799年5月に入りイギリスに帰国したワーズワスは、幼なじみで後に結婚することになるメアリ・ハチンスン(Mary Hutchinson)の家族が経営するダラム郡の農場に滞在した後、12月末に湖水地方のグラスミア湖近くのタウン・エンド(Town End, Grasmere)に居を構える。後にダヴ・コテージ(英語: Dove Cottage)[1]と呼ばれる現存の住宅である。翌年 コールリッジとロバート・サウジーもこの近く、湖水地方北部の中心地、ケジックのグリータ・ホール(Greta Hall, Keswick)に転居してくる。三人は「湖水詩人」として知られるようになる。この時期、ワーズワスが書いた詩の主題は、自然を愛でたものだけではなく、時事的なもののほか別離、忍耐や悲しみに関するものもあり、傑作の中・小品詩が多く、『抒情民謡集』第2版以降から1807年出版の『二巻詩集』(Poems in Two Volumes)に蒐集された。この1798年 - 1807年の頃が傑作を生みだしたワーズワスの驚異の時代と言われる。

1802年アミアンの和約で英仏間の往来が可能になり、アネットと娘キャロライン(カロリーヌ)に会うため、ワーズワスは妹ドロシーと共にフランスに旅行する。この旅はアネットとの関係を清算する意味があったようで、キャロラインの養育費についても話し合いがついた。帰国後この年の秋にワーズワスはメアリー・ハチンソンと結婚した。翌年、メアリーは第一子ジョンを出産する。ドロシーは、この後もずっと生涯兄とその妻、彼らの家族とともに同居を続けた。

1807年、ワーズワスは『抒情民謡集(Lyrical Ballads)』以降の抒情詩を蒐集した『二巻詩集』(Poems in Two Volumes)を出版する。彼の傑作詩を多く含んだこの詩集は、「大哲学的叙事詩」を期待していたコールリッジにとっては期待外れだったが、後にはワーズワスが評価される要因ともなった。しかしこのころまで経済的窮乏は続いていた。ワーズワスはグラスミアではタウン、エンドからアラン・バンク、グラスミア牧師館を転々としたが、この間二人の子を失っている。またあれほど親しくしていたコールリッジとも1810年頃から不仲になっていった。一方ワーズワスはこの時期に散文も書いており、1808年には政府のナポレオンとの協定を批判する『シントラ協定』Convention of Cintra を書き始め翌年出版。さらに後に彼の『湖水地方案内』として詩集以上に人気を集めた散文の初版を1810年に無記名で公開している。なおグラスミアでは牧師館在住時にこの地の学校で教鞭もとったという。
評価と名声:ライダル・マウント(1813 - 1833)

1813年に至ると、親しくなったロンズデール伯爵ウィリアム・ラウザー(英語版)より年収400ポンドの印紙販売官の職が与えられ、終生の地となるライダル湖畔の丘にあるライダル・マウント(Rydal Mount]、現在の行政区分では Ambleside に属する)の広大な土地に邸宅を借り移住した[2][3]


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