ウィリアム・ピアース
William Pierce
生誕 (1933-09-11) 1933年9月11日
アメリカ合衆国ジョージア州アトランタ
死没2002年7月23日(2002-07-23)(68歳)
アメリカ合衆国ウェストバージニア州ポカホンタス郡ミルポイント
ウィリアム・ルーサー・ピアース三世(William Luther Pierce III, 1933年9月11日 - 2002年7月23日)は、アメリカ合衆国の極右活動家[3][4]、物理学者、作家。
オレゴン州立大学の物理学教授として教鞭をとっていたが、その後ネオナチ・白人至上主義的な政治活動に関与した。ネオナチ団体ナショナル・アライアンス(英語版)の創設者であり[4]、以後彼が死去するまでの30年間にわたり、アメリカにおける有力な白人至上主義者の1人に数えられていた。
経歴
大学院修了まで軍学校生徒時代のピアース
1933年、ジョージア州アトランタにてスコットランド=アイルランド系アメリカ人(英語版)・イングランド系アメリカ人の長老派教会[5][6][7]の家系にて、父ウィリアム・ルーサー・ピアース・ジュニア(William Luther Pierce, Jr.)と母マルグリット・ファレル(Marguerite Farrell)の息子として生を受ける。1936年に生まれた弟サンダース(Sanders)は後に技師となり、ピアースの政治活動にも共感し支援を行っている[8]。父は1892年生まれのバージニア州クリスチャンバーグ出身で、母は1910年生まれのジョージア州リッチランド(英語版)出身だった。また母の家系を辿ればオールドサウス系貴族でアラバマ州知事やアメリカ連合国司法長官を務めたトマス・ワッツがいる[9]。南北戦争後、母の家系は労働者階級に没落したものの存続していた[10]。父は外航貨物船の監督に携わる役人で[11]、後には保険代理店のマネージャーに転職したが、1942年に交通事故で死亡している[12]。父の死後、ピアースと母、弟の3人家族はアラバマ州モンゴメリーに引っ越し、その後さらにテキサス州ダラスへと移った[13]。
学校でのピアースは優秀な生徒で、1学年を飛び級している。また高校最後の2年間はアレン軍学校(Allen Military Academy)で過ごしている[14]。十代の頃のピアースは、モデルロケットの製作や化学、通信、電子関係の実験、そしてサイエンス・フィクションを読む事が趣味であったという[11]。また、彼が最初に抱いた夢は宇宙飛行士になることだった[15]。
1951年に軍学校を卒業すると、油田の雑役として一時的に働く。しかし金属パイプの落下事故で手を負傷したため退職し、靴のセールスマンの職を得る[16]。その後、ライス大学に通うための奨学金を獲得。1955年にはライス大を卒業して物理の学士(B.A.)の学位を得る[17][18]。卒業後の一時期はロスアラモス国立研究所で働き、その後カリフォルニア工科大学大学院に進学するがまもなくコロラド大学ボルダー校に移り、1962年には物理の博士号を修得している[17]。1962年から1965年まで、オレゴン州立大学の助教授として物理学を教えた[19]。 オレゴン州立大学在籍中、彼は2つの社会運動、すなわち民権運動とベトナム戦争に対する反戦運動の台頭を目の当たりにした。彼はこれらをユダヤ人が主導したものと捉え、また共産主義の影響を予想し運動そのものをアメリカ白人に対する脅威と見なすようになる。1962年には一時的に反共団体ジョン・バーチ・ソサエティに入会しているが[20]、まもなく退会している。
初期の政治活動