ウィリアム・ラーンド
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ウィリアム・ラーンド
William Larned


ウィリアム・ラーンド
基本情報
フルネームWilliam Augustus Larned
国籍 アメリカ合衆国
出身地同・ニュージャージー州サミット
生年月日 (1872-12-30) 1872年12月30日
没年月日 (1926-12-16) 1926年12月16日(53歳没)
死没地同・ニューヨーク
身長180cm
体重77kg
利き手右
バックハンド片手打ち
殿堂入り1956年
ツアー経歴
デビュー年1890年
引退年1911年
4大大会最高成績・シングルス
全英ベスト8(1896・1905)
全米優勝(1901-02・07-11)
優勝回数7(米7)
4大大会最高成績・ダブルス
全英ベスト4(1905)
国別対抗戦最高成績
デビス杯優勝(1902)
キャリア自己最高ランキング
シングルス1位
■テンプレート  ■プロジェクト テニス

ウィリアム・ラーンド(William Larned,[1] 1872年12月30日 - 1926年12月16日)は、アメリカニュージャージー州サミット出身の男子テニス選手。フルネームは William Augustus Larned (ウィリアム・オーガスタス・ラーンド)という。「ビル・ラーンド」(Bill Larned)とも呼ばれる。コーネル大学卒業。右利きで、体格は身長180cm、体重77kg。

全米選手権男子シングルス優勝7回は現在も大会歴代1位タイ記録。グランドスラム優勝7回は1925年にビル・チルデンに抜かれるまでは歴代1位タイ記録だった。アメリカ人のテニス選手として、最も早くウィンブルドン選手権に遠征した選手の1人でもあり、1896年1905年の2度ウィンブルドンに出場した。1900年から始まった男子テニス国別対抗戦「デビスカップ」においても、黎明期のアメリカ・チームをリードした。彼のテニスは、サイドラインぎりぎりに決める正確なグラウンド・ストロークを中心に、攻撃的なオールラウンド・プレーを得意にした。
経歴

ラーンドは1891年から全米選手権に出場し始め、1892年に初めて男子シングルスの「チャレンジ・ラウンド」(挑戦者決定戦)に進出した。初期の全米選手権は、「チャレンジ・ラウンド」から「オールカマーズ・ファイナル」(大会前年優勝者とチャレンジ・ラウンド勝者で優勝を争う)への流れで優勝者を決定した。ラーンドは最初のチャレンジ・ラウンド決勝でフレッド・ホビーに敗れ、大会前年優勝者オリバー・キャンベルへの挑戦権を逃した。1894年から1896年まで、彼は3年連続でチャレンジ・ラウンド決勝の壁にぶつかる。1896年ウィンブルドン選手権に初遠征し、男子シングルスのベスト8に入った。最初のウィンブルドン準々決勝で、ラーンドはハーバート・バデリーに 6-3, 6-3, 4-6, 4-6, 3-6 の逆転負けを喫した。イギリス人以外の選手がウィンブルドンの男子シングルスで8強以上に進んだのは、1885年ジェームズ・ドワイト(アメリカ、ベスト4入り)、1890年のディーン・ミラー(アメリカ)に続く3人目の快挙であった。

1898年に起きた米西戦争で、ラーンドはセオドア・ルーズベルト(後のアメリカ第26代大統領)が結成した志願兵組織「ラフ・ライダーズ」(Rough Riders)の一員としてキューバに赴いた。テニス選手では、全米選手権で1893年1894年1896年1897年に4勝を挙げたロバート・レンも「ラフ・ライダーズ」に参加した。ラーンドはその従軍期間中にリウマチ熱に感染し、これが彼の後の人生に暗い影を落とすことになる。

米西戦争から帰還した2年後、ラーンドは1900年の全米選手権で「チャレンジ・ラウンド」の勝者となり、9度目の挑戦で初めて「オールカマーズ・ファイナル」に勝ち進んだ。4年ぶり5度目のチャレンジ・ラウンド決勝で、ラーンドはジョージ・レン(ロバート・レンの弟)に勝ち、大会前年優勝者マルコム・ホイットマンへの挑戦権を得たが、初進出のオールカマーズ・ファイナルではホイットマンに 4-6, 6-1, 2-6, 2-6 で敗れて準優勝になった。1901年の全米選手権は、前年度優勝者ホイットマンの大会不参加により「オールカマーズ・ファイナル」がなくなり、チャレンジ・ラウンド決勝の結果が優勝記録表に記載された。(大会前年優勝者は自動的にオールカマーズ・ファイナルに出場できた点が、現在のシステムとの相違点である。)1901年のチャレンジ・ラウンド決勝で、ラーンドはビールズ・ライトを 6-2, 6-8, 6-4, 6-4 で破り、28歳で初優勝を果たした。

1902年のラーンドは、大会前年優勝者としてチャレンジ・ラウンド勝者を待つ立場になったが、ここでイギリスの強豪選手レジナルド・ドハティー(兄弟テニス選手の兄)が勝ち上がってきた。ラーンドはレジナルドを 4-6, 6-2, 6-4, 8-6 で破り、この年はタイトルを防衛したが、1903年のチャレンジ・ラウンド勝者となったローレンス・ドハティー(レジナルドの弟)には 0-6, 3-6, 8-10 で敗れ、大会3連覇を逃した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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