ウィリアム・ランドルフ・ハースト
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ウィリアム・ランドルフ・ハースト
William Randolph Hearst
ウィリアム・ランドルフ・ハースト(1906年
生年月日 (1863-04-29) 1863年4月29日
出生地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州サンフランシスコ
没年月日1951年8月14日(1951-08-14)(88歳)
死没地 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ビバリーヒルズ
出身校ハーバード大学
現職新聞発行者
所属政党民主党(1896?1935)
独立党(1905?1910)
ミュニシパル・オーナーシップ・リーグ(1904?1905)
配偶者ミリセント・ヴェロニカ・ウィルソン(1882?1974)
子女ジョージ・ランドルフ・ハースト(1904?1972)
ウィリアム・ランドルフ・ハースト・ジュニア(1908?1993)
ジョン・ランドルフ・ハースト(1910?1958)
ランドルフ・アパーソン・ハースト(1915?2000)
デヴィッド・ウィットマイアー・ハースト(1915?1986)
サイン
アメリカ合衆国下院議員
ニューヨーク州第11選挙区選出
在任期間1903年3月4日 - 1907年3月3日
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ハーストの豪邸(Hearst Castle)の「Casa del sol」映画「市民ケーン」(1941)ハーストをモデルとする。

ウィリアム・ランドルフ・ハースト(英語: William Randolph Hearst、1863年4月29日 - 1951年8月14日)は、カリフォルニア州サンフランシスコ生まれのアメリカ合衆国実業家新聞発行人。新聞王と呼ばれた。アメリカのメディア・コングロマリットハースト・コーポレーションの創業者。映画『市民ケーン』のモデルとしても有名。
生涯

父ジョージはゴールドラッシュ時代に鉱山を当て、富豪となった炭坑のオーナー。のちに、カリフォルニア州の上院議員になった。母フィービーはミズーリ州の学校の教師。10歳の時に母親とヨーロッパ中を旅行し見聞を広める。ハーストは16歳でニューハンプシャー州コンコードにあるセント・ポール高校に入学。

ハーバード大学に入学するも(1882 - 1885)、学位を取らずに退学。その後1887年、父親が賭博の担保として入手した「サンフランシスコ・エグザミナー」を譲り受ける。彼は同紙を「ザ・モナーク・オブ・ザ・デイリーズ」に改名、最良の設備と才能ある作家を得ることになる。その後、ハーストは汚職の暴露と、インスピレーションで満たされた物語を数多く発表している。

1895年にはニューヨーク・モーニング・ジャーナル紙を買収し、ジョーゼフ・ピューリツァーニューヨーク・ワールド紙の所有者)との発行競争が勃発。購読者数を増加させるために両紙は、キューバの暴動に関する記事を多く掲載していくことになる。両紙の記事は、真実を伝えるものよりも市民感情を煽るショッキングなものが多かった。例えば、スペイン軍がキューバ人を強制収容所に入れ、彼らが疾病と飢えで苦しみ死んだなどという捏造記事やでっち上げ記事で民意をコントロールし、スペインとの戦争(米西戦争)までを引き起こしている。イエロー・ジャーナリズム(ジャーナル中のコマ漫画“イエロー・キッド”の名前に由来する)の用語は扇情的に扱われた新聞記事のスタイルに使用された。

ハーストは、自身の新聞の売り上げを伸ばすために1898年米西戦争を誇大に報じたとされる。彼の政治経歴は、大統領ウィリアム・マッキンリー暗殺に絡んで、事件の数か月前に出版したアンブローズ・ビアスによる風刺詩がマッキンリー暗殺をほのめかしているとの指摘を受け、痛手を受けたことも。

1903年ニューヨークで22歳の美しいショーガール、ミリセント・ヴェロニカ・ウィルソン(1882 - 1974)と結婚。出会いは彼女がまだ16歳の時。20歳近く年齢が離れていたが、彼らは5人の息子をもうけている。ジョージ・ランドルフ(1904 - 1972)、ウィリアム・ランドルフ・ジュニア(1908 - 1993)、ジョン・ランドルフ(1910 - 1958)、および双子のランドルフ・アパーソン(1915 - 2000)およびデービッド・ウィットマイアー(1915 - 1986)。婚姻関係はハーストの死まで続いている(1926年に別居)。

アメリカ合衆国下院議員(1903年 - 1907年)、ニューヨーク市長1905年1909年)と政治家としての道を歩むが、ニューヨーク州知事1906年)選挙に出馬するものの、チャールズ・エヴァンス・ヒューズに敗北。この間、第一次世界大戦へのアメリカ関与に反対し、国際連盟を攻撃したこともある。

彼の新聞の全国チェーンとニュースを配信する通信社の国際通信社(INS;後にやはり新聞チェーン系のUPと合併。組織、資本内容が変更されてUPIとなる)を加えて、定期刊行物は「シカゴ・エグザミナー」「ボストン・アメリカン」「コスモポリタン」「ハーパース・バザー」を含むようになった。

1920年代にはカリフォルニア州サン・シメオンの240,000エーカー(970 km2)の農場に動物園付きの絢爛豪華でやや悪趣味な城を建造(通称ハースト・キャッスル)。このころ、元女優マリオン・デイヴィス(本名マリオン・セシリア・ダグラス、1897 - 1961)と知り合い、妻と別居して、マリオンと暮らし始める。初めてハーストと出会ったころのマリオンは、まだ10代半ばのショーガールだったが、50代のハーストはひと目でマリオンの容姿と性格を気に入り、直ちに彼女のパトロンに納まった。そして愛人であるマリオンのために、わざわざ映画制作会社(コスモポリタン社)まで設立。強引に彼女を映画女優に仕立て上げデビューさせただけでなく、自分が発行する新聞社の記事で彼女を大々的に宣伝した。しかし、その露骨なまでに愛人をプッシュする売り出し手法は大衆をおおいにしらけさせる結果となった。また、彼女自身、美人というだけであまり女優としての才能もなく、女優業よりも夜通しパーティで遊びまわることに夢中だったことも手伝い、莫大な資金をかけた割りには映画界の評価は芳しくなかった。当然、ハースト傘下以外の新聞・雑誌での評価は低く、結局大スターにはなれず、晩年はハーストの経営する新聞社の経営難により、芸能活動をすることが困難になり1937年に引退。

ピーク時には彼はいくつかのラジオ放送局および映画会社に加えて、28の主な新聞および18の雑誌を所有。しかしながら、世界恐慌は彼の財務状態を弱めた。1940年頃になると彼は巨大なコミュニケーション帝国のコントロールを失っている。1951年、カリフォルニア州ビバリーヒルズにて死去。彼が築きあげたハースト・コーポレーションは、巨大メディア・コングロマリットとして現在でもニューヨークに本拠を構え事業は続いている。
その他

ハーストの生涯はオーソン・ウェルズの映画「市民ケーン」の中でも描かれている。ハーストはこの映画の製作を察知し、映画が自分とマリオン・デイヴィスを侮辱していると考え、その公開を妨害しようと持てる影響力をすべて行使した(評論家の買収や、劇場への圧力など)。


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