ウィリアム・ラム_(第2代メルバーン子爵)
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イギリス政治家第2代メルバーン子爵
ウィリアム・ラムWilliam Lamb
2nd Viscount of Melbourne
メルバーン子爵(1844年)
生年月日1779年3月15日
出生地 グレートブリテン王国 ロンドン
没年月日 (1848-11-24) 1848年11月24日(69歳没)
死没地 イギリス ハートフォードシャー
出身校ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジ
前職弁護士
所属政党ホイッグ党トーリー党→カニング派(英語版)→ホイッグ党
称号第2代メルバーン子爵枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)
配偶者キャロライン
親族初代メルバーン子爵(英語版)(父)
第4代ベスバラ伯爵(義兄)
第3代パーマストン子爵(義弟)
サイン
首相
在任期間1834年7月16日 - 1834年11月14日
1835年4月18日 - 1841年8月30日
王/女王ウィリアム4世
ウィリアム4世、ヴィクトリア
内務大臣
内閣グレイ伯爵内閣
在任期間1830年11月22日 - 1834年7月16日
アイルランド担当大臣(英語版)
内閣カニング内閣、ゴドリッチ子爵内閣、ウェリントン公爵内閣
在任期間1827年4月29日 - 1828年6月21日
貴族院議員
在任期間1828年7月22日 - 1848年11月24日[1]
庶民院議員
選挙区レオミンスター選挙区(英語版)
ハーディントン・バー選挙区(英語版)
ポーターリントン選挙区(英語版)
ピーターバラ選挙区(英語版)
ハートフォードシャー選挙区(英語版)
ニューポート選挙区(英語版)
ブレッチングリー選挙区(英語版)[1]
在任期間1806年1月31日 - 1806年11月1日
1806年11月24日 - 1807年5月30日
1807年5月23日 - 1812年10月24日
1816年4月16日 - 1819年11月30日
1819年11月29日 - 1826年6月16日
1827年4月24日 - 1827年5月25日
1827年5月7日 - 1828年7月23日[1]
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第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム(英語: William Lamb, 2nd Viscount of Melbourne, PC, FRS1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリス政治家貴族弁護士

グレイ伯爵退任後のホイッグ党を指導し、ホイッグ党政権の首相を2度にわたって務めた(第1次:1834年、第2次:1835年-1841年)。ウィリアム4世の治世からヴィクトリア朝初期にかけて保守党トーリー党)党首ロバート・ピールと政権を奪い合った。ヴィクトリア女王即位時の首相であり、女王の寵愛を受けた。1842年に政界の第一線を退き、代わってジョン・ラッセル卿がホイッグ党を指導していく。
概要

1779年メルバーン子爵家の次男として誕生。ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジへ進学。さらにリンカーン法曹院で学び、弁護士となる。1805年に兄が死にメルバーン子爵家の跡取りとなる。また同年にキャロライン・ポンソンビーと結婚した(→生い立ち)。

1806年庶民院議員に初当選。初めホイッグ党に所属していたが、1816年からトーリー党へ移籍した。妻キャロラインの不倫事件で著名となる(→若手議員)。

1827年ジョージ・カニング内閣でアイルランド担当大臣(英語版)を務めた。1828年のカニングの死後、カニング派(英語版)と呼ばれるカニングの路線を継承する派閥に加わる。ウェリントン公爵内閣では他のカニング派閣僚とともに首相ウェリントン公爵の守旧的方針に反発して辞職した(→トーリー党政権の閣僚)。

その後、ウィリアム・ハスキソン指導下のカニング派に属して野党となった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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