ウィリアム・メレル・ボーリズ
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ウィリアム・メレル・ヴォーリズ
ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(1905年頃)
生誕1880年10月28日
アメリカ合衆国カンザス州レブンワース
死没 (1964-05-07) 1964年5月7日(83歳没)
滋賀県近江八幡市慈恩寺町
国籍 アメリカ合衆国 / 日本
別名一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)[1]
出身校コロラドカレッジ
職業建築家社会事業家信徒伝道者、英語教師[1]
配偶者一柳満喜子
受賞黄綬褒章(1961年(昭和36年))

所属ヴォーリズ建築事務所
近江兄弟社

ウィリアム・メレル・ヴォーリズ(William Merrell Vories、一柳米来留〈ひとつやなぎ めれる[1]〉、1880年10月28日 - 1964年昭和39年)5月7日)は、アメリカ合衆国(米国)に生まれ、日本で数多くの西洋建築を手懸けた建築家社会事業家キリスト教信徒伝道者

アメリカからミッション(キリスト教の伝道)のために来日。自給自足の精神で、布教のほか、病院や学校の開設などの社会事業を行った。その過程で、建築設計の依頼を受け、学生時代にMITで学んだ建築学を駆使して、当時人気のあったスパニッシュ・コロニアル・ミッション様式の建築物を設計。関西を中心に多くの作品を残した。[2]

ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立者の一人としてメンソレータム(現在はロート製薬商標、近江兄弟社は「メンターム」として販売)を広く日本に普及させた実業家でもある。

また、キリスト教青年会(YMCA)活動を通し「近江ミッション」を設立し、信徒の立場で熱心にプロテスタント伝道に従事した。

讃美歌や同志社カレッジソングなどの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かった。
概要

米国カンザス州レブンワース生まれ。1905年2月、滋賀県立商業学校(現:滋賀県立八幡商業高等学校)に英語教師として八幡町(現在の近江八幡市)に着任[1]。「ガリラヤ丸」という船を仕立てて琵琶湖岸各地を伝道するも、宗教活動の生徒への影響が問題となり学校を去らざるを得なくなった[1]が、伝道施設の建設を契機に関西を中心に建築家や事業家として活動を広げた。近江八幡市にはヴォーリズ建築が集まる池田町洋館街や夫人と暮らした旧宅を使った記念館があり、晩年は名誉市民第一号に選ばれるなど現在に至るまで大きな足跡を残している[1]

1908年明治41年)、京都で滝川と共に建築設計監督事務所を設立し、日本各地で西洋建築の設計を数多く手懸けた。学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、その種類も様式も多彩である。

その作品はいわゆるアメリカンスタイルとして、住宅やオフィスビルに新しい作風をもたらすものとなった。

1941年(昭和16年)に日本に帰化してからは、華族一柳末徳子爵の令嬢満喜子夫人の姓をとって一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と名乗った。「米来留」とは「米国より来りて留まる」という洒落である。

近江商人発祥の地である滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点に精力的に活動した。夏季には避暑地長野県軽井沢に拠点を移し、こちらでも数多くの建築を手がけた[注 1][5]。また、太平洋戦争終戦直後、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサー近衛文麿との仲介工作に尽力したことから、「天皇を守ったアメリカ人」とも称される[6]

関西学院大学

近江兄弟社中学校・高等学校

日本基督教団 大阪教会

池田町洋館街

神戸旧居留地38番館

略歴

1880年 - 米国カンザス州レブンワースで生まれる。

1882年 - この頃から教会の礼拝に出席するようになり、後日、幼児洗礼を受ける。

1887年 - 米国アリゾナ州フラッグスタッフに一家で転居。イーストデンバー高校に入学[7]

1900年 - イーストデンバー高校を卒業。コロラドカレッジ理工系課程に入学し、YMCA活動を開始。

当初は建築家志望でマサチューセッツ工科大学への入学が決定していたが、家庭の経済状況を考えて近くのコロラドカレッジに入学。


1902年 - 学生宣教義勇軍大会での講演に感激し、外国伝道への献身を決意する。この頃、のちの関西学院第4代院長のベーツと知り合う。文系課程に転じる。

1904年 - コロラドカレッジ哲学科を卒業し、コロラドスプリングスYMCAの主事補となる。

1905年(明治38年) - 滋賀県立商業学校(現:滋賀県立八幡商業高等学校)の英語科教師として来日[1]

1907年(明治40年) - 近江ミッション(近江基督教伝道団)を創設。

1908年(明治41年) - 京都YMCA会館新築工事現場監督を担当。同会館内に建築設計監督事務所を開業する(後のヴォーリズ建築事務所)[7]

1910年(明治43年) - 米国へ帰国し、メンソレータム社の創業者ハイドと出会う[7]。10カ月の滞在後、建築家のレスター・チェーピンらを伴って日本に戻る。建築家のレスター・チェーピン、吉田悦蔵と3人で「ヴォーリズ合名会社」設立。

1911年(明治44年) - ヴォーリズ建築設計事務所竣工。

1912年(明治45年・大正元年) - ヴォーリズ合名会社軽井沢事務所を開設[7]

1913年(大正2年) - 病気療養のため米国へ帰国。ハイドに再会。日本でのメンソレータム販売代理店となる[7]

1914年(大正3年) - 日本に移住する両親を伴い、近江八幡に戻る[7]

1915年(大正4年) - ヴォーリズ合名会社束京事務所開設。

1918年(大正7年) - 結核療養所「近江療養院」(近江サナトリアム、現:ヴォーリズ記念病院)開設。

1919年(大正8年) - 子爵令嬢一柳満喜子と結婚。結婚式は自らが設計した明治学院の礼拝堂で挙げた。

1920年(大正9年) - ヴォーリズ合名会社を解散し「W・M・ヴォーリズ建築事務所」および「近江セールズ株式会社」を設立する。

1922年(大正11年) - ヴォーリズ建築事務所大阪事務所開設。

1923年(大正12年) - 紫苑会館内にシオン幼稚園を開園。

1930年 - 母校コロラドカレッジよりLLD(名誉法学博士号)を受ける[注 2]

1934年(昭和9年) - 「近江ミッション」を「近江兄弟社」と改称。また、「湖畔プレス社」を設立。

1941年(昭和16年) - 日本国籍を取得し、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)と改名。ヴォーリズ建築事務所を一柳建築事務所と改称。

1944年(昭和19年) - 株式会社近江兄弟社を設立。一柳建築事務所を解散。建築設計業務を停止[7]

1945年(昭和20年) - 太平洋戦争に敗れた日本に進駐したマッカーサーと近衛文麿との仲介工作を行う。

1946年(昭和21年) - 近江兄弟社内に建築部が復活。建築設計業務を再開[7]

1951年(昭和26年) - 藍綬褒章を受章(社会公共事業に対する功績による)。また、『失敗者の自叙伝』を『湖畔の声』に連載(1957年まで)。

1957年(昭和32年) - くも膜下出血のため軽井沢で倒れ、療養生活に入る。

1958年(昭和33年) - 近江八幡市名誉市民第一号に選ばれる[1]

1961年(昭和36年) - 黄綬褒章を受章(建築業界における功績による)。株式会社一粒社ヴォーリズ建築事務所が独立し、大阪に事務所を開設[7]

1964年(昭和39年) - 近江八幡市慈恩寺町元11の自邸(現:ヴォーリズ記念館)2階の自室にて永眠。83歳。近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬が行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)[注 3]に収められる。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章を受章する。

2014年(平成26年) - 神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築初の重要文化財に指定される。

代表建築ウィキメディア・コモンズ日本語版カテゴリページにも画像があります。
教会関係

(学校付属の教会建築は#学校を参照)

建造物名年所在地状態備考
近江八幡YMCA会館1906年(明治39年)25滋賀県近江八幡市ヴォーリズの第一作。同会館内に建築設計監督事務所を開業している[7]
/日本基督教団福島教会1909年(明治42年)07福島県福島市現存せず。国の登録有形文化財だったが、東日本大震災で被災して取り壊し[8]
/日本バプテスト同盟京都バプテスト教会1912年(明治45年)26京都市上京区礼拝堂部分のみ現存
/日本基督教団京都御幸町教会1913年(大正2年)26京都市中京区京都市指定有形文化財
/国際青少年センターYMCA東山荘1915年(大正4年)静岡県御殿場市宿泊・研修施設
/日本福音ルーテル久留米教会1918年(大正7年)40福岡県久留米市登録有形文化財[9]
/軽井沢ユニオンチャーチ1918年(大正7年)20長野県軽井沢町


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