ウィリアム・メイクピース・サッカレー
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ウィリアム・メイクピース・サッカレー

ウィリアム・メイクピース・サッカレー(William Makepeace Thackeray 英語発音: [?w?lj?m ?me?kpi?s ?θak?ri], 1811年7月18日 - 1863年12月24日)は、イギリス小説家インドカルカッタ出身。彼の姓はサッカリーあるいはザッカリーと日本語表記されることもある。

パンチ」などに寄稿し、優れた批評眼を養う。上流階級を痛烈に批判した『虚栄の市』で文名を高め、ディケンズと並びヴィクトリア朝を代表する小説家。ほかに『ペンデニス』など。
生涯

リッチモンド・サッカレーの長男として、1811年7月18日にインドカルカッタに生まれた。父はイギリス東インド会社に勤務。母アンにはカーマイケル・スミスという恋人がいたが、周囲の反対でインドへ送られ、そこでサッカレーの父と出会い結婚した。しかし偶然そこでスミスに再会、夫を5年後に亡くすと、母アンはスミスと再婚した。

1816年、6歳のときに義父に連れられインドを離れるとイギリスへ渡る。母方の祖母に預けられると母の帰国を待ち、チャーターハウス校へ入学させられる。1829年、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに進み、詩を投稿したりする一方、賭博に熱中して大学を中退、ヨーロッパ大陸各地を旅して自由奔放な生活を送る(ゲーテに出会ったのもこの時期)。そのころ亡父の遺産を利用した投機週刊誌の出版、あるいは画家として身を立てようと試みるがいずれも失敗に終わっている。そこへ遺産を預けてあったインドの銀行代理店の倒産が重なり、ほぼ無一文になってしまう。1835年、ベラー・ショーとの結婚を機に新聞社の通信員となるが、わずか2年で退職し、「パンチ」などに評論や小説などの小品を手当たり次第に送り食いつなぐ。当時の作品に『アイルランド・スケッチブック』(1840年)[1]、『俗物の書』(1846年)[2]などがあり、やがて『虚栄の市[3]で作家としての地位を確立、ディケンズと並び称されるに至る。のち『ペンデニス』(1848 - 1850年)、歴史小説『ヘンリー・エズモンド』(1852年)[4]、『ニューカム家の人々』(1853 - 1855年)などを発表した。1863年12月24日、『デニス・デゥヴァル』の執筆半ばに52歳で死去。ウエストロンドンのケンサルグリーン墓地に葬られた。
作家評

同時期に並び称されたディケンズが、処女作から常に中・下層の庶民、ことに貧民の側に立って、市井の人情味にあふれる作品を書いたのに対して、中の上といった階級の出身で教育にも恵まれていたサッカレーは自ずと、自分の属する階級の人間性、ことにその腐敗や俗物根性(スノビズム)を痛烈に暴露することに優れていた。

もっとも、腐敗や拝金主義、成功欲を批判しても、その先にあるべき有益な人生の価値観が提示できたか、という意味では、20世紀のモームと同様の批判にさらされることもある。なお、ディケンズとサッカレーは友人同士であったが、サッカレーを酷評した批評家をディケンズが支持したことから、サッカレーが亡くなる前年まで仲たがいしていた。
エピソード

サッカレーは熱烈な愛猫家で、ルイーズという愛猫を目に入れても痛くないほど可愛がっていたという。ルイーズは彼とともに長い時間を過ごし、時には彼の料理からおこぼれを与えることも厭わなかったという。[5]
主な作品

「馬丁粋語録」(The Yellowplush Papers、1838?9年)

「床屋コックスの日記」(Cox's Diary、1840年)

『床屋コックスの日記・馬丁粋語録』
平井呈一岩波文庫 1951


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