ウィリアム・マーシャル
William Marshall
初代ペンブルック伯
テンプル教会にある墓石
出生1136年頃/1144年頃
死去1219年5月14日
埋葬
イングランド王国、ロンドン、テンプル教会
配偶者イザベル・ド・クレア
子女一覧参照
父親ジョン・マーシャル
ウィリアム・マーシャル(William Marshall, 1136年頃/1144年頃 - 1219年5月14日)は、プランタジネット朝イングランドの政治家にして騎士。初代ペンブルック伯、ロングヴィル伯、軍務伯(アール・マーシャル)。フランス語名ではギヨーム・ル・マレシャル(Guillaume le Marechal)。父はジョン・マーシャル、母はウォルター・オブ・ソールズベリーの娘シビル。
騎士としての活躍は目覚しいもので、生涯でおそらく500以上の試合をしたと思われるが、1度たりとも負けたことはなかったという伝説を残している。プランタジネット朝の若ヘンリー王、ヘンリー2世、リチャード1世、ジョン王、ヘンリー3世の5人の王に仕え、卑賤の身分からイングランドの摂政、そしてヨーロッパで最も有力な人間の一人となった。
ウィリアムの登場以前、マーシャルという言葉はイングランド王の家政機構の中で「厩の長官・警護役」でしかなかったが、彼が死去した時には、単に「マーシャル」と言えばそれでイングランドはもちろん、ヨーロッパ中の人間がウィリアム・マーシャルを連想するほどであった。 1136年または1144年頃、ウィルトシャーの小規模な地主の家に生まれる。祖父ギルバートは地主でありながらイングランド王ヘンリー1世に厩役(軍務伯、アール・マーシャル)としても仕え、王家の馬の管理を任された。父ジョンもアール・マーシャルを受け継いでヘンリー1世に仕え、役職名マーシャルを姓として名乗った。ウィルトシャーの小さな所領の女相続人と結婚もしていて、2人の子(ギルバートとウォルター、ウィリアムの異母兄)を儲けた[1]。 イングランドが無政府時代に入ると父は初めヘンリー1世の甥スティーブンに仕えたが、1139年にヘンリー1世の娘マティルダに寝返り、妻と離婚してソールズベリー伯爵パトリック・オブ・ソールズベリー
生涯
少年期
1152年、ウィリアムが8歳頃の時、父に捨てられる経験をしている。この頃スティーブンの軍によりニューベリー城(英語版)を包囲された時、スティーブンはジョンが休戦を求める代わりに四男のウィリアムを人質として要求、ウィリアムは敵陣へ送られた。だが、父が約束を破ってしまったためスティーブンがウィリアムを縛り首にすると恫喝すると、父は「好きにしろ、俺にはもっとマシな息子作るハンマーと鉄床があるんだからな!」と答えたという。しかし、スティーブンの慈悲によりウィリアムは殺されず、2ヶ月の間人質として捕らえられた。1153年にスティーブンとマティルダの息子アンリ(後のヘンリー2世)が和睦して無政府時代が終焉、翌1154年にスティーブンが死去してヘンリー2世が即位、ウィリアムは無事両親の下へ返された。父はマティルダへの貢献の報酬としてウィルトシャーの荘園を与えられ富裕になったが、役職と遺産は長男で異母兄ギルバートが相続するためウィリアムは自立を考えなければならなかった[3]。
遍歴の騎士時代ボールドウィン・ド・ギーヌを落馬させたウィリアム・マーシャル。マシュー・パリスの『大年代記』より
長男でなかったウィリアムは、相続すべき土地も財産もなかったため、財産は自分で稼ぐ必要があった。12歳頃(1156年頃)にノルマンディーのタンカルヴィルへ送られ、マーシャル家と姻戚関係(母の従兄弟)にあったウィリアム・オブ・タンカーヴィルの居城タンカルヴィル城で育てられる際、ウィリアムは騎士になるべく修行を積まされた。騎士に叙任されたのは1164年頃、ヘンリー2世とフランス王ルイ7世が衝突したノルマンディーの戦場での叙任式と推定されている[注 2][4]。
初戦闘は叙任式直後で、突撃で槍が折れ馬が負傷したが街路の戦闘で手柄を立てた。しかし捕虜を確保せず身代金を取らなかったため戦闘前より金に窮してしまい、見かねたウィリアム・オブ・タンカーヴィルに馬上槍試合(トーナメント)を勧められ、負傷が元で死んだ馬の代わりに新しい馬も与えられ、トーナメントへ出場することになった。