William Holden
ウィリアム・ホールデン
本名William Franklin Beedle Jr.
生年月日 (1918-04-17) 1918年4月17日
没年月日 (1981-11-12) 1981年11月12日(63歳没)
出生地 アメリカ合衆国イリノイ州オファロン
受賞
アカデミー賞
主演男優賞
1953年『第十七捕虜収容所』
ヴェネツィア国際映画祭
審査員特別賞
1951年『重役室』
エミー賞
男優賞(ミニシリーズ/テレビ映画部門)
1974年『The Blue Knight』
その他の賞
備考
ハリウッド名声の歩道
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ウィリアム・ホールデンとオードリー・ヘプバーン(1954年『麗しのサブリナ』)
ウィリアム・ホールデン(William Holden, 1918年4月17日 - 1981年11月12日)は、アメリカ合衆国イリノイ州出身の俳優である。本名はWilliam Franklin Beedle Jr.。 イリノイ州オファロン
生涯
第二次大戦中は陸軍航空隊に所属。4年間の軍務の後、戦後再び映画に出演するが、しばらくは作品に恵まれず復帰間もないころは低迷していた。しかし、1950年、ビリー・ワイルダー監督の『サンセット大通り』でアカデミー主演男優賞にノミネート、この一作でそれまでのアイドル路線から脱却し演技派スターへと変化を遂げてスターダムを駆け上がる。その後は1950年代を通じて興行的に最も信頼できるスターと称され、数々のヒットを飛ばし、特にビリー・ワイルダーと再び組んだ『第十七捕虜収容所』では念願のアカデミー主演男優賞を受賞。他にもデヴィッド・リーン監督『戦場にかける橋』、キャロル・リード監督『鍵』、ジョン・フォード監督『騎兵隊』、『喝采』、『麗しのサブリナ』、『ピクニック』、『慕情』と、世界映画史を代表する名作・ヒット作に出演し大活躍。常に人気も上位にランクインしていた。
来日もしており、黒澤明監督との写真も現存する[2]。『トコリの橋』では淡路恵子、『戦場にかける橋』では早川雪洲、『第七の暁』では丹波哲郎と競演をしている。
ハリウッドでも指折りの実業家としても有名で、野生動物の保護に熱心に取り組み、1970年代にはアフリカはケニアに1260エイカーにも及ぶ広大な土地を購入、そこを保護区にしサファリ・クラブの共同経営などにも参加した。また、1959年には税金対策の為に家族共々スイスに移り住んだりした。
女優のブレンダ・マーシャルと応召前の1941年に結婚し、3人の子供に恵まれたが、1970年に離婚。1960年代終わりのアメリカン・ニューシネマの時代に入ってからは人気も下降気味になったが、1969年のサム・ペキンパー監督『ワイルドバンチ』、1973年のクリント・イーストウッド監督『愛のそよ風』、1974年の『タワーリング・インフェルノ』、そして、1976年にはシドニー・ルメット監督『ネットワーク』で再びアカデミー主演男優賞候補になるなど、活躍を続けた。しかし、私生活では事業の不振や呼吸器疾患、年下の女優ステファニー・パワーズとの関係などから、晩年はアルコール依存症だったという。1981年、自宅にて酩酊状態で絨毯で足を滑らせ、テーブルに頭をぶつけてできた傷からの出血による失血で死去した[3]。遺体は火葬され、遺灰は太平洋に撒かれた。故人の意向により、葬儀等は行われなかった[4]。
本格的デビュー作『ゴールデン・ボーイ』で共演して以来、長年、彼と交流のあった女優バーバラ・スタンウィックが、彼の死去後の1982年3月29日に開催された第54回アカデミー賞授賞式で名誉賞を受賞した。その受賞スピーチでバーバラは「彼のことが大好きでした。亡くなって寂しいです。彼は私がオスカーを手にすることをいつも願ってくれていました」と語り、オスカー像を掲げ「私のゴールデン・ボーイ(彼女は彼をこう呼んでいた)、あなたの願いが叶ったのよ!」とスピーチを締めくくって哀悼の意を表した[5]。 公開年邦題
主な出演作品
映画
原題役名備考
1939ゴールデン・ボーイ
Golden Boyジョー・ボナパルト
前科者
Invisible Stripesティム・テイラー
1940我等の町
Our Townジョージ・ギブス
アリゾナ
Arizonaピーター
1941空の要塞
I wanted Wingsアル
掠奪の町
Texas
1943俳優志願
Young and Willingノーマン・リース
1947恋文騒動
Dear Ruthウィリアム・シークロフト
ハリウッド・アルバム
Variety Girl本人
1948荒原の女
Rachel and the Strangerデヴィッド・ハーヴェイ