サー・ウィリアム・ペン(Sir William Penn, 1621年4月23日 - 1670年9月16日)は、清教徒革命(イングランド内戦)期から王政復古期のイングランドの海軍軍人(提督)。クエーカーでペンシルベニア植民地総督を務め、フィラデルフィア市を建設したウィリアム・ペンの父である。 第一次イングランド内戦で議会派に属し、イングランド共和国成立後は海軍で活動、1651年から1652年にかけて戦隊を率いて海上で抵抗する王党派のカンバーランド公ルパートを追跡する作戦に従事、第一次英蘭戦争でイングランド海軍に従軍し司令官ロバート・ブレイクの次席指揮官に任命された。初めケンティッシュノックの戦い
生涯
1655年には護国卿オリバー・クロムウェルの命令で艦隊を指揮して西インド諸島へ遠征、翌1656年にジャマイカを占領、イングランド領とした。またブレイクやマンクと共に海軍改革を提唱、クロムウェルに商船と戦闘艦を混用して艦隊を編入することを禁止することを提言したり、新たな戦術を考案し単縦陣として採用、第一次英蘭戦争で威力を発揮した[1][3]。
だが、遠征から帰国した途端にロンドン塔へ投獄された。短期間で釈放されたが指揮権を奪われたため、アイルランドで新しい生活を送ることを考え、友人のブロッグヒル男爵(後のオーラリー伯)ロジャー・ボイルと一緒にアイルランドへ移住した。ここで遠征直前にクロムウェルが王党派のマスケリー子爵ドノー・マッカーシー(英語版)(後のクランカーティ伯爵)から取り上げ、代わりにペンに与えた南部・マンスターのコーク県にあるマクルーム城(英語版)と周辺の領地でイングランド人を植民、あるいは知人へ土地を貸して生計を立てていった。クエーカーに興味を持ち信者のトマス・ローを城を招いたことがあり、息子ウィリアム共々感銘を受けたがクエーカーにならなかった[4]。
1660年の王政復古の際にはイングランドへ帰国、戦列艦ネイズビー(同年にロイヤル・チャールズと改名)で亡命中だったチャールズ2世をイングランドに迎え入れた。これによりチャールズ2世から騎士に叙爵、海軍理事官に任命され、マクルーム城はクランカーティ伯へ返還を命じられたがシャンガリーという別の土地と交換、以後は同僚のサミュエル・ピープスの近所に引っ越して生活を送った。ピープスとサンドウィッチ伯爵エドワード・モンタギュー(海軍理事局でのピープスの後援者)同様、ペンは王政復古で地位を守り通した「穏健な」議会派であった[1][5]。