ウィリアム・ペン
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ウィリアム・ペン

ウィリアム・ペン(William Penn, 1644年10月14日 - 1718年7月30日)は、イングランド植民地の政治家、宗教家(非国教徒)である。クエーカーペンシルベニア植民地総督を務め、イギリスの植民地だった現在のアメリカ合衆国フィラデルフィア市を建設しペンシルベニア州を整備した人物でもある。ペンが示した民主主義重視は、アメリカ合衆国憲法に影響を与えた。
生涯
イングランドとアイルランドを往復

1644年、ロンドン塔タワー・ヒルで同名の海軍軍人ウィリアム・ペンとマーガレット夫妻の長男として誕生。父は有力な海軍軍人で清教徒革命イングランド内戦)では議会派として海軍に入り、内戦と第一次英蘭戦争などで王党派オランダと戦った。少年期に宗教教育をエセックスのチグウェル校で受け、母や妹マーガレット(通称ペグ)と共に遠征で留守の父を待つ日々を送っていたが、1655年に父がイングランド共和国護国卿オリバー・クロムウェルの命令で西インド諸島へ遠征、西インド諸島は占領出来なかったが翌1656年ジャマイカを占領、帰国した直後にロンドン塔へ投獄されると環境が一変した。生活立て直しを図る父とその友人のブロッグヒル男爵(後のオーラリー伯爵)ロジャー・ボイルと一緒にアイルランド南部マンスターコーク県にあるマクルーム城(英語版)へ移住した[1]

アイルランドではクエーカー信者のトマス・ローに興味を持った父がマクルーム城へ招き、説教を聞いて父共々感銘を受けたが、この時はまだクエーカーにならなかった。家庭教師の下で勉強を続けながら父の領地を散歩したり乗馬する生活を送ったが、1660年王政復古チャールズ2世を船で迎えた父が騎士に叙爵、ロンドン海軍本部へ勤務することになりイングランドへ帰国するとペンも帰国した。息子の立身出世を願う父の計らいでペンは父と離れ離れになりオックスフォード大学クライスト・チャーチへ入学、勉強とスポーツに明け暮れる日々を過ごし、1661年に父に呼ばれチャールズ2世の戴冠式を見物、父の同僚サミュエル・ピープスやチャールズ2世と弟のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)と出会った[2]

だが、大学へ戻ると宗教に疑問を感じるようになり、クエーカーの信仰に同調した宗教観の故に大学の礼拝を欠席した。それが問題となり1662年に退学させられ、立身出世を踏み外したと考え激怒した父から鞭打たれ、家からも追い出される始末だった。何とか息子を改心させようと父が考えたグランドツアーで、ペンはクロフォード伯爵ジョン・リンジーの同行者という形でヨーロッパ旅行へ出かけ、フランスパリに滞在した。やがて一行と別れてからはソミュールへ移り勉強に励みながら信教の自由についても学び、旅行を通して親友になったサンダーランド伯爵ロバート・スペンサーと共に1664年スイスイタリアなどを訪れる一方、サンダーランド伯の母方の叔父で共和主義者のアルジャーノン・シドニーとも親交を結んだ[3]

イングランドへ帰国すると父とよりを戻し1665年2月からリンカーン法曹院へ通いながら、海軍勤務でヨーク公とも親交を深め、第二次英蘭戦争やロンドンのペスト流行など暗い出来事をよそに法律の勉強を続け、エドワード・コークの著書に触れ慣習法に習熟するようになった。しかし世間の空虚さとクエーカーがはびこり盛んに集会を開いたり家々を訪問・説教する一方、宮廷の放埓ぶりを聞いて宗教への疑問が再び呼び起こされ、心に動揺をきたした。そうしたペンの悩みを見抜いた父によりアイルランドの領地管理を任され、王政復古でマクルーム城と交換で手に入ったシャンガリーの監督を務めた。ここで居座る男との揉め事は長引いて苦労したが、ダブリンアイルランド総督オーモンド公ジェームズ・バトラーに仕え、旧知のオーラリー伯と弟のシャノン子爵フランシス・ボイル、オーモンド公の2人の息子・オソリー伯爵(英語版)トマス・バトラー(英語版)とアラン伯爵リチャード・バトラー(英語版)兄弟と知り合い、シャンガリー監督の傍らで彼等と共に反乱討伐にも出向き、時折妹の結婚などでイングランドへ帰国する生活を送った[4]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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