ウィリアム・ヘンリー砦の戦い
フレンチ・インディアン戦争中
ウィリアム・ヘンリー砦の平面図
時1757年8月3日 - 1757年8月9日
場所現在のニューヨーク州ジョージ湖
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度25分13秒 西経73度42分40秒 / 北緯43.42028度 西経73.71111度 / 43.42028; -73.71111
ウィリアム・ヘンリー砦の戦い(ウィリアム・ヘンリーとりでのたたかい、英 Siege of Fort William Henry、仏 Bataille de Fort William Henry)は、1757年の8月に、フランスとイギリスの間で行われた、フレンチ・インディアン戦争の戦闘である。ジョージ湖南岸のこの砦の包囲戦で、兵力の乏しいイギリスは降伏し、砦を撤退することとなったが、その時、フランスと同盟していたインディアン兵による、イギリス軍への虐殺行為が起こった。この行為での死者は当初1,500人程とも言われていたが、現代の調査では、恐らく200人にも満たないと思われる[5]。 1754年、イギリスとフランスとの間で、北アメリカの植民地(現在のペンシルベニア州西部とニューヨーク州北部)をめぐってフレンチ・インディアン戦争が勃発した。最初の数年間は、イギリスは特にうまく行ったわけでもなかった。1755年、エドワード・ブラドックによるブラドック遠征が、モノンガヘラの戦い 1757年に向けてルードゥーンが立てた作戦は、1756年の9月にイギリス本国の政府に提出され、ヌーベルフランスの中心地であるケベックに、遠征隊を派遣することに焦点を当てていた。これは純粋に、ヌーベルフランスの辺境に沿って、如何に防御すべきか、その作戦を練るもので、オールバニとモントリオールの中間にあり、争いが絶えない経路であるハドソン川とシャンプラン湖も遠征路に含まれていた[8]。1755年のジョージ湖の戦いに続いて、フランス軍はカリヨン砦(現タイコンデロガ砦)をシャンプラン湖の南岸に建てており、一方でイギリス軍は、ジョージ湖の南岸にウィリアム・ヘンリー砦を建てており、その16マイル(26キロ)南にもエドワード砦
イギリスの連敗
ケベック遠征計画
ルードゥーンの作戦は、ケベックへの遠征隊到着が、時宣を得たものであること、フランス軍が辺境への遠征隊に対して動きが取れなくなるため、ヌーベルフランスの要であるケベックを、セントローレンス川に沿って守らざるをえなくなることを前提にしていた[11] 。しかしながら、本国政府では、北アメリカとヨーロッパ、双方での七年戦争による、勢力の移り変わりが混乱をきたし、ウィリアム・ピットが、軍事の支配権を握るまでになっていた。そのためルードゥーンは、この遠征計画に関して、ロンドンから返事をもらえたのは、1757年の3月になってからだった[8]。この返事が来る前に、ルードゥーンはケベック遠征計画をより発展させ、13植民地の総督たちと共に、辺境を協力して守り、民兵に、それぞれの地域を割り当てることを考えていた[12]。
1757年3月に、ウィリアム・ピットからの命令が最終的に届き、第一の標的として、イル・ロワイヤル(現在のケープ・ブルトン島)の大西洋岸にあるルイブール砦への遠征が求められた[13]。物質的な不安はなかったものの、辺境地帯で何が起こるかが大きく懸念された。セントローレンス川沿いに常駐するフランス軍は、ルイブールへの援軍は遠すぎて不可能だろうが、結果として、辺境地帯のあちこちで動き回ることは可能と思えたからだ。ルードゥーンは、ルイブールへの遠征のために最良の部隊を選び出し、ニューヨーク植民地の辺境地帯の指揮官として、准将のダニエル・ウェッブ(英語版)を配した。ウェッブには2,000人から成る正規兵が任されたが、その中心になるのは、第35歩兵連隊(英語版)と、第60歩兵連隊(英語版)からの兵だった。13植民地からは、5,000人の民兵が参加した[14]。
フランスの包囲準備モンカルム将軍
1756年のの勝利の後、モンカルムは、ウィリアム・ヘンリー砦でイギリスと交戦する機会を狙っていた。この砦は、カリヨン砦を攻撃する上で、イギリスの拠点たりうるところだっただからだ[15]。