この項目では、21世紀イギリスの外相について説明しています。日本サッカー殿堂入りした戦前イギリスの外交官については「ウィリアム・ヘーグ (外交官)」をご覧ください。
イギリスの政治家ウィリアム・ヘイグWilliam Hague
生年月日 (1961-03-26) 1961年3月26日(63歳)
出生地 イギリス
イングランド ロザラム
出身校オックスフォード大学マグダレン・カレッジ
INSEAD
所属政党保守統一党
称号旭日大綬章[1]
配偶者フィオナ・ジェンキンス
庶民院
第92代院内総務
内閣第1次キャメロン第2次改造内閣
在任期間2014年7月14日 - 2015年5月8日
国王
首相エリザベス2世
デーヴィッド・キャメロン
イギリス
筆頭国務大臣
内閣第1次キャメロン内閣
第1次キャメロン第1次改造内閣
第1次キャメロン第2次改造内閣
在任期間2010年5月11日 - 2015年5月8日
国王
首相エリザベス2世
デーヴィッド・キャメロン
イギリス
第16代外務・英連邦大臣
内閣第1次キャメロン内閣
第1次キャメロン第1次改造内閣
在任期間2010年5月11日 - 2014年7月15日
国王
首相エリザベス2世
デーヴィッド・キャメロン
イギリス
影の外務大臣
在任期間2005年12月6日 - 2010年5月11日
国王
首相エリザベス2世
トニー・ブレア
ゴードン・ブラウン
イギリス
庶民院議員
選挙区リッチモンド選挙区
当選回数5回
在任期間1989年2月23日 - 2015年3月30日
国王
首相エリザベス2世
マーガレット・サッチャー
ジョン・メージャー
トニー・ブレア
ゴードン・ブラウン
デーヴィッド・キャメロン
その他の職歴
イギリス
ウェールズ大臣
(1995年7月5日 - 1997年5月2日)
保守党
第17代党首
(1997年6月19日 - 2001年9月13日)
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リッチモンドのヘイグ男爵ウイリアム・ヘイグ(Rt Hon
、William Hague、1961年3月26日 - )は、イギリスの政治家。庶民院議員(保守党所属)であり、外務・英連邦大臣、保守党党首を務めた。1961年3月26日にサウス・ヨークシャーのロザラムで誕生する。幼い頃から弁舌能力に優れ、ロザラムのコンプレヘンシブ・スクールに在校していた1977年に、保守党大会において16歳にして素晴らしい演説を行い、党首のマーガレット・サッチャー(後の首相)より「ウィリアム・ピットの再来」と絶賛されたこともある。また議会演説の最中に爆笑を誘う場面が動画サイトでしばしば見られる。
その後オックスフォード大学モードリン・コレッジに進学し、大学では哲学及び政治経済学(PPE)を学ぶとともに、オックスフォード大学保守連盟 (Oxford University Conservative Association
) やオックスフォード・ユニオン (Oxford Union) の会長を務める。同大学卒業後はロイヤル・ダッチ・シェルやマッキンゼーで勤務し、またINSEADにて経営学修士の資格を取得した。1987年イギリス総選挙において下院議員に立候補するも落選する。しかし、1989年の補欠選挙で初当選し政界入りを果たす。1990年より複数の大臣の議会秘書官を経て、1995年からウェールズ大臣を務める。同大臣在職当時ウェールズ省の職員だったフィオナ・ジェンキンスと知り合い、結婚する。
1997年イギリス総選挙において保守党は労働党に敗れ、首相のジョン・メージャー党首は辞任を表明した。ヘイグは党首選に立候補し、ケネス・クラーク
(英語版)やマイケル・ハワードらの保守党の大物議員を破り、36歳にして党首となる。2001年イギリス総選挙において保守党は再び惨敗を喫し、ヘイグはその責任を取って辞任する。保守党党首としては、オースティン・チェンバレン以来の首相未経験の党首となった。
党首辞任後は役職に就かず、バックベンチャーとなる。また、執筆・講演活動を開始した。特に文才は際立っており、2004年に出版したウィリアム・ピット(小ピット)の伝記は翌年の英国ブックアワード
(British Book Awards) の歴史部門を受賞し、2007年には奴隷廃止活動家のウィリアム・ウィルバーフォースの伝記を上梓した。この時期、ヘイグは最も高収入の下院議員と言われ、年に100万ポンドを稼いだこともあった。2005年イギリス総選挙において保守党は3度敗北してマイケル・ハワード党首は辞任を表明し、同年10月から12月にかけて党首選が行われた。ヘイグはデービッド・キャメロンを支持する。党首選の結果、キャメロンが当選しヘイグは影の外相兼筆頭大臣(副党首格)に任命される。2010年イギリス総選挙は保守党が第1党の座を奪還。