ウィリアム・フォークナー
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「フォークナー」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「フォークナー (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウィリアム・フォークナー
William Faulkner
1954年12月11日(57歳)
誕生ウィリアム・カスバート・フォークナー
(1897-09-25) 1897年9月25日
ミシシッピ州 ニューオールバニ
死没1962年7月6日(1962-07-06)(64歳)
同バイハリア
職業小説家
文学活動ロスト・ジェネレーション
代表作『響きと怒り』(1929年)
サンクチュアリ』(1931年)
八月の光』(1932年)
アブサロム、アブサロム!』(1936年)
主な受賞歴オー・ヘンリー賞(1939, 1949)
ノーベル文学賞(1949)
全米図書賞(1951, 1955)
ピューリッツァー賞(1955, 1963)
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ノーベル賞受賞者
受賞年:1949年
受賞部門:ノーベル文学賞
受賞理由:「アメリカの現代小説に対する、強力かつ独創的な貢献に対して」[1]

ウィリアム・カスバート・フォークナー(William Cuthbert Faulkner, 本名:Falkner, 1897年9月25日 - 1962年7月6日)は、アメリカ合衆国小説家ヘミングウェイと並び称される20世紀アメリカ文学の巨匠であり、南部アメリカの因習的な世界を「意識の流れ」を初めとする様々な実験的手法で描いた。代表作に『響きと怒り』、『サンクチュアリ』、『八月の光』、『アブサロム、アブサロム!』など。1949年度ノーベル文学賞受賞。

フォークナーはその生涯の大半をミシシッピ州ラファイエット郡の田舎町オックスフォードにある自宅「ローアン・オーク(英語版)」(Rowan Oak)で過ごしており、彼の作品の大部分は同地をモデルにした架空の土地ヨクナパトーファ郡ジェファソンを舞台にしている。これらの作品はオノレ・ド・バルザック的な同一人物再登場法によって相互に結び付けられ、その総体はヨクナパトーファ・サーガと呼ばれる。

弟のジョン・フォークナー(英語版)も作家で、一時は兄を上回る人気作家であった[1]。ジョンは兄の死の直後の1963年、兄についての回顧本『響きと怒りの作家―フォークナー伝』を執筆している。
生涯
前半生

1897年、ミシシッピ州の田舎町ニューオールズバニーに生まれる。4人兄弟の長男で、2番目の弟ジョン・ウェズレーも後に作家となる。フォークナーの父は、当時は曽祖父が開業した地方鉄道の駅長をしており、フォークナー家がミシシッピ州に移ったのは、この曽祖父の代からである。曽祖父ウィリアム・クラークは、弁護士として名を挙げ、南北戦争の際には義勇軍の隊長として出征、戦後は弁護士の傍ら事業や議会に進出し、さらに小説や紀行を書きベストセラーとなるなどした傑物であり、幼いフォークナーの尊敬の的であった。

一家は、ウィリアムが生まれた翌年にニューオールズバニーの北に位置するリプレーに移ったが、ウィリアム5歳のとき、祖父が地方鉄道の事業を手放したことから、父が駅長を辞め、その関係でさらに同州オックスフォードに移った。以後、フォークナーは、生涯のほとんどをこの地で過ごすことになる。彼は、10歳の頃から詩作をはじめたが、その反面学校での勉強には興味が持てず、高校を1年で中退している。しかし、その前後にフィリップ・ストーンという4歳年上の法学生との交友が始まり、文学への関心が深かった彼の手ほどきで、豊かな文学的教養を身につけることができた。

一時祖父の経営する銀行に勤めるなどしていたフォークナーは、第一次大戦勃発後に軍への入隊を希望し、1918年7月に英空軍に入ると訓練生としてカナダのトロントに送られている。しかし、同年11月に戦争が終わったため、実戦に出向く機会のないまま少尉に特別進級し除隊となった。この際、復員兵に対する特別措置を利用し、翌年9月にミシシッピ大学に入学する。教養学科の授業を受けるがほとんど興味がもてず、1年で退学。しかし、この頃から大学の新聞雑誌に詩や小品を発表し始める。大学中退後は、一時ニューヨークに赴いて書店で働き(この時の店の支配人が後述のアンダーソンと後に結婚する)、短期間で戻って1921年にミシシッピ大学の郵便長となるが、1924年に免職となった。この年に、ストーンの尽力で第一詩集『大理石の牧神』を出版している。
作家活動

1925年、ストーンの勧めでヨーロッパ旅行を思い立つが、その準備のために滞在したニューオーリンズで、シャーウッド・アンダーソンと知り合い親しくなる。彼からの紹介でこの地の雑誌・新聞などに作品を発表し、またこの交友が刺激になって長編小説に着手した。また滞在先で知り合ったヘレン・ベアードに恋をし、ヘレンに向けた詩集を執筆する。1926年、アンダーソンの紹介で最初の長編小説『兵士の報酬』を出版し、翌年に第2作『蚊(英語版)』を出版したが同作はボストンでは禁止された。フォークナーの住居「ローアン・オーク(英語版)」のエントランス

1929年、長編第3作にして「ヨクナパトーファ・サーガ」の第1作に当たる『サートリス(英語版)』を刊行した。同年に代表作の一つである『響きと怒り』を完成する。しかし、ここまで作品はほとんど売れず、傑作とされる『響きと怒り』も、当時はごく一部の批評家から賞賛を受けたのみであった。この年、幼なじみで離婚していた女性エステル・オールダムと結婚。二人の連れ子を引き取り、翌年オックスフォードに家を買って移り住む。この家は、南北戦争以前に建造された町で最も古い家屋の一つで、フォークナーはこれを「ローアン・オーク(英語版)」と呼んで終の住処とした。以後、中短編とともに、『死の床に横たわりて』(1930年)、『サンクチュアリ』(1931年)、『八月の光』(1932年)、『アブサロム、アブサロム!』(1936年)と傑作を発表していくが、当時フランスで紹介されて評価を受けるなどしたものの自国では評判が得られず、生活のために週給500ドルでハリウッド(Hollywood)の台本書きの仕事を始める。これ以後、1945 年まで長短10 回滞在することになる。ハリウッドの華やかで異質な世界は、戦争もののジャンルを含めて映画的手法を彼に教え、また結婚生活や深南部の片田舎の日常からの息抜きの場所ともなる。映画監督ハワード・ホークス(Howard Hawks,1896-1977)と知り合いになり、彼の監督作品『脱出』、『三つ数えろ』などの脚本を手掛けている。そのような状況からの転機となったは、マルカム・カウリーによって1946年に編まれた1巻本の選集『ポータブル・フォークナー』である。この書籍の出版によって、フォークナーは急激に注目され、ほとんどが絶版になっていた著書が次々に復刊、1950年に、ノーベル文学賞(1949年度)の栄誉へと続いていくことになった。

1955年8月には来日し、長野市で開催された「アメリカ文学セミナー」において自作について述べた際に、第二次大戦で負けた日本と、南北戦争で負けた自身の郷里であるアメリカ南部は似通った宿命を背負っていると述べ、ここ十年間に次々と日本の新進文学者が誕生するだろうと示唆した。この時期、東京や京都でも日本の文化人と会談した。1962年6月、最後の作品で「サーガ」最後の作品でもある『自動車泥棒』を出版。同年7月、落馬事故により血栓症を発症し、心筋梗塞によりオクスフォードに近いバイハリアの病院で死去[2]。没年64歳。
人物・エピソード

あまり背の高くない中肉中背の人物であったが、骨格はたくましかった。

1959年夏に来日した際には、ウィスキーとパイプをほとんど手もとから離さなかった。

もっとも尊敬している作家は
マーク・トウェインである。

愛読書は『ドン・キホーテ』、『白鯨』、『ボヴァリー夫人』、『カラマーゾフの兄弟』、『旧約聖書』、シェイクスピアチャールズ・ディケンズジョゼフ・コンラッドであり、二, 三年おきに読み返していた。


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