ウィリアム・フィップス
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サー・ウィリアム・フィップスSir William Phips
肖像画
生年月日1650年/1651年2月18日
出生地 イングランド共和国ウーリッジ
没年月日1694年/1695年2月18日(満44歳没)
死没地 イングランド王国ロンドン
前職船大工、トレジャーハンター
称号ナイト爵
配偶者メアリー・フィップス
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サー・ウィリアム・フィップス(Sir William PhipsまたはPhipps、1650年/1651年2月2日 - 1694年/1695年2月18日[1])は、造船工、船長トレジャーハンター民兵隊指揮官[2]マサチューセッツ湾直轄植民地の初代総督を務めた。

低い身分の生まれで、教育もあまり受けていなかったフィップスはボストンで造船工となり、西インド諸島への財宝探しの旅に何度か出かけていた。航海中に沈没したスペインガレオン船から、偶然膨大な宝物を引き揚げたため、イングランド本国でその名をとどろかせ、この偉業でにわかに資産家となり、ナイト爵を授与された。また軍人としても名を上げ、ウィリアム王戦争中の1690年に遠征軍を率いたポートロワイヤル攻略で成功を収め、ケベックへの侵攻をも目論んだが、これは惨憺たるものだった。

粗野であか抜けない振る舞いにもかかわらず、イングランド本国と当時のマサチューセッツに多大な影響力をふるったインクリース・マザー一族との人脈により、フィップスはマサチューセッツの総督の位置をかち取った。しかし政治的には素人であり、他の役人との激しい口論を始めとする論争に陥り、多岐にわたる告訴への答弁のためイングランドに召喚されたが、審問されるその前にロンドンで死去した。
生涯
初期の人生
造船工として1733年当時のウーリッジ港の銅版画

ジェームズ、メアリーのフィップス夫妻の息子として、ケネベック川河口のネカセット(現在のメイン州ウーリッジ)の開拓者集落に生まれた。6歳の時に父を亡くし、母メアリーは近所の開拓者仲間であるジョン・ホワイトと再婚した[3]コットン・マザーが自伝の中で、フィップスは彼の26人の子供のうちの一人と主張しているが、これはどうやら誇張のようである。母メアリーはジェームズとの間に6人、ジョン・ホワイトとの間に8人の子供をもうけたが、他にも夭折した子供たちがいたようである[4]。父ジェームズの祖先はノッティンガムシャージェントリで、フィップス自身はアイルランド大法官サー・コンスタンティン・ヘンリー・フィップスのいとこにあたる[5]。マザーによれば、フィップスは18歳までは羊飼いの仕事をしており。その後4年の造船工の年季奉公に出た[6] 。彼は読み書きは習っていたが、正規の学校教育を受けていなかった[7] 。このため日常会話や文章が洗練されておらず、富と名誉を手に入れてからは、自らの秘書にしばしば援助を仰いでいた[8]

1673年に造船工の奉公が終わったフィップスはボストンに行って、造船と大工の仕事を続けた[9] 。その1年後、ジョン・ハル(マサチューセッツのミントマスターのジョン・ハルとは別人)の未亡人メアリ・スペンサー・ハルと結婚した[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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