ウィリアム・ハワード_(初代スタッフォード子爵)
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初代スタッフォード子爵
ウィリアム・ハワード
William Howard
1st Viscount Stafford
スタッフォード子爵
ハワード家
アンソニー・ヴァン・ダイク
続柄21代アランデル伯トマスの三男
称号初代スタッフォード子爵、初代スタッフォード男爵(英語版)、バス勲章勲爵士(KG)、王立協会フェロー(FRS)、福者
敬称My Lord
出生1614年11月30日

死去 (1680-12-29) 1680年12月29日(66歳没)
イングランド王国 ロンドンロンドン塔タワー・ヒル
配偶者メアリー(旧姓スタッフォード)
子女初代スタッフォード伯ヘンリー
父親21代アランデル伯トマス
母親アレシア(旧姓タルボット)(英語版)
役職貴族院議員
宗教ローマ・カトリック
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初代スタッフォード子爵ウィリアム・ハワード(英語: William Howard, 1st Viscount Stafford, KB, FRS1614年11月30日 - 1680年12月29日)は、イングランドの貴族。

第21代アランデル伯トマス・ハワードの末息子で1640年にスタッフォード子爵に叙せられたが、カトリック陰謀事件により1680年大逆罪で処刑された。1929年に教皇ピウス9世により列福された。
目次

1 経歴

2 栄典

2.1 爵位

2.2 勲章


3 家族

4 脚注

4.1 注釈

4.2 出典


5 参考文献

経歴

1614年11月30日に第21代アランデル伯爵トマス・ハワードとその妻アレシア(英語版)(第7代シュルーズベリー伯爵ギルバート・タルボット(英語版)の娘)の間の次男として生まれた。兄にマルトレイヴァース卿(儀礼称号)ジェイムズと第22代アランデル伯爵位を継承するヘンリーがいる[1][2][3]

ケンブリッジ大学セント・ジョン・カレッジ(英語版)で学ぶ[4]

1637年にスタッフォード男爵(英語版)スタッフォード家の娘メアリー・スタッフォードと結婚。1639年に第6代スタッフォード男爵ロジャー・スタッフォード(英語版)がスタッフォード男爵位を放棄した後、1640年9月12日の勅許状で彼と彼の妻がスタッフォード男爵位を与えられた[1]。ついで1640年11月11日の勅許状でスタッフォード子爵に叙せられた[1]。この爵位は通常通り男系男子に限定される[2]。この数日後に貴族院議員に列する[1]

内戦中、国王チャールズ1世王立海軍に所属していたが、内戦が勃発した1643年には妻とともにアントワープへ逃れている。1646年6月に帰国の許可を得たが、1647年7月にはフランダースへ移住した[1]

王政復古後の1660年6月には貴族院の決定で彼の財産が返還された。しかし彼はチャールズ2世が自分に報いていないと考え、宮廷に対して反対票を投じることが増えた[1]

1665年1月には王立協会フェロー(FRS)に選出[1]1678年7月3日の貴族院では第2代ピーターバラ伯爵(英語版)ヘンリー・モードント(英語版)と激しい口論をした[1]

1678年カトリック陰謀事件でタイタス・オーツ(英語版)の偽証によって他の4人のカトリック貴族(初代パウィス伯爵(英語版)ウィリアム・ハーバート(英語版)、第3代ウォーダーのアランデル男爵(英語版)ヘンリー・アランデル(英語版)、初代ベラシズ男爵(英語版)ジョン・ベラシズ(英語版)、第4代ピーター男爵ウィリアム・ピーター(英語版))とともに逮捕され、ロンドン塔に投獄された[5][1]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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