ウィリアム・ハリソン
William Harrison
アメリカ合衆国
第9代 大統領
任期1841年3月4日 – 1841年4月4日
副大統領ジョン・タイラー
アメリカ合衆国
第2代 コロンビア担当大臣
ウィリアム・ヘンリー・ハリソン(英語: William Henry Harrison, 1773年2月9日 - 1841年4月4日)は、アメリカ合衆国の軍人、政治家で、第9代アメリカ合衆国大統領である。1811年のティピカヌーの戦いでの勝利で名声を獲得したため、「ティピカヌー」あるいは「オールド・ティピカヌー」の愛称で呼ばれた。
他の多くの初期の大統領と同様に、バージニアのプランテーション所有者だった。当時としては高齢の68歳で大統領に就任したものの、在任期間わずか1か月で死去した。また、アメリカ独立宣言の前に生まれた(つまり生まれながらの合衆国市民でない)最後の大統領であり、初めて国葬(英語版)された大統領であった[1]。
生い立ちと軍歴で生まれた[2]。ベンジャミン・ハリソンとエリザベス・バセット夫妻の7人の子供の末子で、3番目の息子だった。一家はバークレー・プランテーションでも著名な政治家一家で、父親は大陸会議で独立宣言へ署名を行い、1781年から1784年までバージニア州知事を務めた。兄のカーター・バセット・ハリソンはバージニア州選出下院議員だった[2]。
1787年、ハリソンは14歳でハンプデン=シドニー・カレッジに入学した[3]。彼は1790年まで同校で学び、ラテン語に精通し、基礎的なフランス語を習得した。学校で宗教復興の動きが起こり、父親は彼を退学させた。その後サウサンプトン郡の学校で短期間学び、そこで奴隷制度反対のクエーカーとメソジストに関わるようになったといわれる。
奴隷制度を支持していた父親は腹を立て、ハリソンをフィラデルフィアに移させた。フィラデルフィアでハリソンはロバート・モリスの家に下宿した(そこで得られる医学的訓練のためだったといわれる)。1790年にペンシルベニア大学に入学、ベンジャミン・ラッシュ博士の下で内科を学んだ[4]。ハリソンが彼の伝記作家に説明したように、彼は勉学を楽しんではいなかった。フィラデルフィアに着いて間もない1791年に父親が学費も残さずに死去したため、ハリソンはモリスの元に置き去りにされた格好になった[5]。
18歳の時、ハリソンは陸軍に入隊しオハイオ州に派遣された。ハリソンは白人の西部侵略に反発するインディアン部族連合軍を撃破。米英戦争でもイギリスとショーニー族の連合軍に勝利し、この活躍で白人社会で一躍国民的英雄となった。
政治歴
政界進出選出)や上院議員(オハイオ州選出)などを務めた後、ホイッグ党に所属して1836年のアメリカ合衆国大統領選挙に出馬したが、この時は民主党のマーティン・ヴァン・ビューレンに敗れた。1840年の大統領選挙で再びホイッグ党から出馬し、現職候補のヴァン・ビューレンを破って当選した。
当時のアメリカ大統領選挙は現在と異なり、候補者が選挙活動をすることを潔しとしない風潮があった。しかしハリソンはこの慣例を破り、派手なパレードや華麗なパーティーを大々的に開き、政治的発言は一切禁じた上で、自身の「戦争の英雄」というイメージを有権者に浸透させることに成功した。 ハリソンが大統領就任宣誓を行なった1841年3月4日は非常に寒く風の強い日だった。ハリソンはコートを着用せず、ほぼ2時間近いアメリカ史上で最長の就任演説を行った。 職名氏名任期
大統領
内閣
大統領ウィリアム・ヘンリー・ハリソン1841年