ウィリアム・ドナルド・ハミルトン
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William Donald Hamilton
ウィリアム・ドナルド・ハミルトン
生誕
1936年8月1日
 エジプト カイロ
死没2000年3月7日(2000-03-07)(63歳)
イギリス ロンドン
国籍 イギリス
研究分野進化生物学,生態学
研究機関ミシガン大学オックスフォード大学
出身校ケンブリッジ大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス
ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン
主な業績血縁選択説
包括適応度
局所的配偶競争
赤の女王仮説
老化の進化
主な受賞歴ダーウィン・メダル(1988)
クラフォード賞(1993)
京都賞基礎科学部門(1993)
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ウィリアム・ドナルド・“ビル”・ハミルトン(William Donald "Bill" Hamilton, 1936年8月1日 - 2000年3月7日)は、イギリス進化生物学者理論生物学者

血縁選択説包括適応度を提唱し、ダーウィン以来の難問であった生物の利他的行動進化の観点から理解する道を拓いた。近親交配性の狩りバチなどに見られる異常な性比を説明する局所的配偶競争や、進化ゲーム理論のさきがけとなる「打ち負かされない戦略」を提唱した。有性生殖の進化的意義の研究では、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』にちなんだ赤の女王仮説への支持と論理の拡張を行った。性選択において、オスの美しさは寄生虫耐性を示すというパラサイト説を唱えた。また老化の進化的意義の研究や、群れは捕食圧によっても形成されるという「利己的な群れ説」を提唱した。晩年には紅葉の進化のハンディキャップ説、微生物による雲の生成説などを提唱した。進化生物学だけでなく生物学分野全般に大きな影響を与え、現代のダーウィンと呼ばれた。
生涯

エジプトカイロで生まれる。父アーチボルド・ハミルトンはニュージーランド出身の工学者。母は医者。彼らの家族はイギリスのケント州に移住し、第二次世界大戦が激しくなるとエディンバラに疎開した。ケントでの住処はダーウィンが後半生を送ったダウンの村に近く、幼い頃に家族で訪れている。大叔母から昆虫の標本とアンリ・ファーブルの著書の翻訳版を貰ったことで昆虫採集に魅了された。9歳の誕生日に両親から送られた進化生態学者E.B.フォードの著書『蝶(Butterflies)』は、幼いハミルトンを自然選択遺伝学集団遺伝学の世界へ導き、昆虫採集を「単なるコレクション」と考えるようになった。12歳のときに、父親が第二次大戦中に作った手製の手榴弾で遊んでいて大けがを負い、一命は取り留めたものの右手の指を失った。14歳になるとダーウィンの『種の起源』を読み、ハチやアリなど社会性昆虫の生態が進化学の難問であることを知った。

トンブリッジ校を卒業した後、1957年ケンブリッジ大学に合格するが、同年から1959年まで兵役に就く。右手の障害のため海外に派兵されることはなく、工兵連隊の募兵担当官となった。この間に、無断で離隊し連れ戻されるという事件を起こしている[1]。ケンブリッジ大学ではセント・ジョンズ・カレッジに在籍した。ハミルトンは大学の図書館でロナルド・フィッシャーの『自然選択の遺伝的理論』を読み、集団遺伝学に魅了された。しかし当時フィッシャーは統計学者であり生物学的な視点に欠けると見なされ、彼の著作も現在ほどの影響力を持っていなかった。正規の授業はハミルトンを満足させることはなく、そのためハミルトンは遺伝学教室で過ごす時間が増えていった。「利他的行動は個体にとっては不利だが種の利益になるから進化する」との説明に何の疑いももたれていなかったことに触れ、「みんなが群淘汰を信じ偽善に陥っている」と言ったと伝えられる[2]J・B・S・ホールデンやフィッシャーらもこの利他性の問題にわずかに取り組んでいたが、ハミルトンの助けにはならなかった。この頃妹のマリーに宛てて送った手紙で、「貧弱な数学の才能しかありませんが、理論生物学でやっていこうと考え始めました」と明かしている[1]。卒業試験の直前には、フィッシャーの晩年の学生で後継者の一人であるA.W.F.エドワーズの元でフィッシャーの性比の理論を研究した。


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