ウィリアム・テル_(オペラ)
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初演時のリブレットの表紙 .mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル クラシック音楽

『ウィリアム・テル』(仏 - Guillaume Tell)は、ジョアキーノ・ロッシーニ作曲による4幕構成のグラントペラフリードリヒ・フォン・シラーによる戯曲『ヴィルヘルム・テル(英語版)』を原作としている[1]リブレットフランス語で書かれているため、『ギヨーム・テル』[注 1]と表記されるべきだが、日本では『ウィリアム・テル』と表記することが多い[3]。この作品をフランス・オペラに適合させるため、いつもは速筆のロッシーニが5ヵ月もかかって作曲した[4]。初演は1829年8月3日王立音楽アカデミー劇場で行われた。このオペラを作曲したのを最後にロッシーニは30年以上にわたる引退生活に入った。
概要マティルド役のロール・サンティ=ダモロー、アルノール役のアドルフ・ヌーリ、ジェスレル役のプレヴォスト

『ギヨーム・テル』はパリ・オペラ座との契約によるグランド・オペラであり、(1)5幕(または4幕)仕立て、(2)劇的な題材、(3)歴史的な興味を惹きつけ、(4)大合唱バレエなどの多彩なスペクタクル要素、(5)異国情緒を備えていることが基本条件となっている。オベールの『ポルティチの唖娘』(1828年)に続くもので、「スイスの気候と風土、村人たちの結婚式の模様など、地方色をさらに強調したグランド・オペラの第2作と見なされた」[5]。「『ギヨーム・テル』は自由を希求する民衆の闘いを壮大なスケールで描き、ロッシーニの創作の集大成であると共にロマン主義的グランド・オペラの幕開けを告げる記念碑的作品となった」[6]。本作の「音楽に表された情景は充分にロマンティックであり、本質的には古典派であったロッシーニが皮肉にもフランスのグランド・オペラの典型を示した作品となった」[4]。本作の後、1831年マイアベーアの『悪魔のロベール』、ジャック・アレヴィの『ユダヤの女』(1835年)、マイアベーアの『ユグノー教徒』(1836年)、ドニゼッティの『ラ・ファヴォリート』(1840年)、マイアベーアの『預言者』(1849年)といった大作が続々と生み出され、グランド・オペラの黄金時代が築かれていくことになる[7][8]
初演とその後ギヨーム・テルを演じるマッティア・バティスティーニ(英語版)

1868年 2月にはパリ・オペラ座はロッシーニを迎えて500回の記念上演を行った。そして、1932年まで『ギヨーム・テル』はパリ・オペラ座にとって不可欠な演目であり続けた。アメリカ初演は1831年 9月19日にニューヨークにて英語で行われた。出演はサン=クレル、プリヴァ、サン=オーバンらであった[1]イギリス初演は1839年7月11日ロンドンハー・マジェスティーズ劇場にてオリジナルのフランス語版で行われた。出演はペルシアーニ、ジョヴァンニ・バティスタ・ルビーニ(英語版) 、タンブリーニ、ラブラーシュら、指揮はコスタであった[1]。小国に分裂していたイタリアでは『ギヨーム・テル』は政治的な利害関係により様々な影響を受けた。権力に抵抗する革命的な人物を賞賛しているという理由でイタリア人検閲官と摩擦を起こし、イタリアでの上演が少数にとどまる原因ともなった。サン・カルロ劇場1833年にこのオペラを上演して以降、2度目の上演は約50年後だった。フェニーチェ劇場におけるヴェネツィアでの初公演は、1856年まで待たなければならなかった。対照的にウィーンでは、やはり検閲問題はあったものの、ウィーン宮廷歌劇場では1830年から1907年の長きにわたり、422回の公演が行われている[9]。日本初演は1983年10月に藤沢市民オペラが行っている[10]。現在でもテノールのパートに高音があるため、キャスティングの条件が厳しいなどの理由で、オペラ全編が上演されることは少ない[11]。長尺のため公演される場合も、かなりの量をカットすることが多い。
楽譜

『ギヨーム・テル』の批判校訂版(Critical Edition)[12]はロッシーニ財団(イタリア語版)による全集版によるもので、M.エリザベス・C.バートレット編「Fondazione Rossine di Pesaro」のクリティカル・エディションが1992年に刊行されると、これが決定版となり、1990年代以降の新演出による本作の上演はオリジナルのフランス語によるものが一般的になっている。イタリア語改訂版の『グリエルモ・テル』(Guglielmo Tell)はカリスト・バッシ(イタリア語版)、ルイジ・バロッキ(イタリア語版)、パオロ・カッテランなどによるもの及びその折衷版などが多数存在し、楽譜の版により訳詩者が異なるという状況であった[13]。また、イタリアにおいては検閲などの影響で、イタリア語への翻訳ばかりでなく、作曲家が関与しない翻案をも余儀なくされこともあるほか、長大な作品であるため様々な形でカットが行われてきたことも決定版が存在せず、混沌とした状態になっていた原因であった[14][15]
リブレットエティエンヌ・ド・ジュイ イポリット=ルイ=フローラン・ビス

リブレットはシラーのスイスウィリアム・テルの伝承を素材とした『ヴィルヘルム・テル』(1804年)を原作としてヴィクトール=ジョゼフ・エティエンヌ・ド・ジュイ(英語版)とイポリット=ルイ=フローラン・ビス(英語版)、の2人の共同によりフランス語で制作された。このほかにアルマン・マラ(英語版)とアドルフ・クレミューが協力したほか、ロッシーニ自身も携わった[16]。原作との相違は原作ではルーデンツとベルタ嬢(いずれもスイス人の設定、オペラには登場しない)の恋愛は控え目に書かれているが、オペラではアルノールとマティルドの恋愛関係が重要な要素として設定されている。原作にはアルノールとマティルドは存在しない。また、第2幕の三重唱「彼らが奪い取った父の日を」ではシラーの戯曲をはっきりと逸脱する。戯曲ではメルクタールは目をつぶされるだけで惨殺されるわけではないし、またテルも純朴な行動の人と描かれており、リュトリの丘で開かれる様々な政治集会への参加も辞退するのである[17]
演奏時間

セミラーミデ』や『泥棒かささぎ』の3時間20分より長く、当時のパリの最大の同僚のマイアベーアの5幕物のグランド・オペラの規模を模したものである。


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