ウィリアム・テル
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アルトドルフのマルクト広場にあるウィリアム・テル記念碑。1895年建設。

ウィリアム・テル(ドイツ語: Wilhelm Tell、フランス語: Guillaume Tell〔ギヨム・テル[1]〕、イタリア語: Guglielmo Tell〔グリエルモ・テル〕、ロマンシュ語: Guglielm Tell〔グリエルム・テル〕、英語: William Tell)は、スイス伝説に登場する民衆の英雄で、弓(クロスボウ)の名手。14世紀初頭にスイス中央部のウーリ州アルトドルフに住んだとされ、ハプスブルク家支配下のオーストリア公国の同地の代官であるゲスラーを暗殺し、これにより民衆の周辺国への反抗が生まれて、シュヴィーツウンターヴァルデンとともにスイス同盟の基礎が作られたとされている。彼の名が記された史料が見つかっていないため実在性は証明されていないが、スイス人の6割はテルが実在の人物であると信じている[2]

日本では長らく英語名に基づいた表記「ウィリアム・テル」が使われており、他にドイツ語名に則した表記「ヴィルヘルム・テル」も用いられている。
時代背景ロッシーニ歌劇(Charles Abraham Chasselat画(1829年))。息子の頭上のリンゴを射ようとするテル。腰に予備の矢を携えている。

14世紀初頭のアルブレヒト1世 (神聖ローマ皇帝)の時代、スイス同盟が軍事的、および政治的な影響力を強めていたが、当時ハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝アドルフの時代に強い自治権を獲得していたウーリの支配を強めようとしていた。

テルはゼンパハの戦い(1386年)における英雄アーノルド・フォン・ヴィンケリートとともにスイス史において並び語られている。テルは、18-19世紀のヨーロッパにおける貴族体制への抵抗の歴史、特に1848年のオーストリア帝国におけるハプスブルク家に対する革命のような、19世紀スイスの形成期における重要なシンボルだった。



伝説

テルへの最初の言及は、1474年にオプヴァルデン準州の副大臣ハンス・シュライバーによって書かれた「ザルネンの書(Weisses Buch von Sarnen)」に認められる。これにルトリの誓いについて記述があり、Burgenbruch謀反の元となったルトリの共謀者の一人としてテルが挙げられている[3]

同じ頃の初期の言及は、1470年代に作られた「テルの歌(‘’Tellenlied’’)」に見られ、現存する最古の写本は1501年に書かれている。この歌はテルの伝説についてで始まり、テルをスイス同盟の最初の同盟者と呼んでいる。物語は、テルがリンゴを射抜き、ゲスラーを射るための2本目の矢と逃亡までを歌い、ゲスラーの暗殺には触れていない[4]。またこの中ではスイス同盟の州が列挙され、当時進行中だったブルゴーニュ戦争によって拡張したと述べ、1477年のブルゴーニュ公シャルルの死とともに終わったと述べている[4]

歴史家アエギディウス・チューディは1570年に伝説を拡大する。それは「ザルネンの書」を根幹にして、独自の細部が追加されている。そこには、テルの名がウィリアムであること、スイスの”Burglen, Uri”生まれであること、リンゴを撃った日付が1307年11月18日であること、テルの死が1354年であることなどが含まれる。このチューディの説が、近世スイスで影響を持つようになり、ウィリアム・テルの共通的な認識となった。この説では、ウィリアム・テルは、強い男であり、登山家であり、弓の名手であった。当時オーストリアのハプスブルク王朝は、ウーリ州支配を狙っており、テルはハプスブルク王朝の支配に抵抗する同盟の一因となった。

ウーリ州アルトドルフ弁護人となったオーストリア人ゲスラーは、リンデンツリーの下のポールに自身の帽子をかけて、住人たちにお辞儀するように強制した。チューディの記録では1307年11月18日にテルは彼の息子を連れてアルトドルフを訪れ、帽子の前を通る時にお辞儀をするのを断ったために逮捕された。ゲスラーはこれに腹を立て、テルの有名な射撃の腕前を利用して残酷な処罰をたくらんだ。テルと息子は従わざるを得なかったが、テルは息子ウォルターの頭の上のリンゴを一発で射抜いた。ゲスラーはテルが矢筒から2本の矢を引き抜いていたことに気づいて、その理由を尋ねた。ゲスラーはテルの命を奪わないことを約束したため、テルは1本目の矢で息子を殺していたら、2本目の矢でゲスラーを殺すつもりだったと話した。ゲスラーは激怒したが、命は保証すると言っていたために、テルを投獄した。

テルはキュスナハトの城の牢まで、嵐の中を船でルツェルン湖を運ばれた。護衛たちは、テルが舵を取るために彼の拘束を解くようにゲスラーに頼み、ゲスラーはそれを認めたが、テルは船を岩場に向かわせ、そこに飛び移った。この地点はザルネン書では「テルの岩棚(Tellsplatte)」と呼ばれ、16世紀にテル礼拝堂が作られている。テルはゲスラーに追跡されて、野山を越えてキュスナハトまで逃走した。そしてテルは、インメンセからキュスナハトへの途中にある岩の隙間から、2本目の矢を使ってゲスラーを暗殺し、この場所は「Hohle Gasse」の名で知られている[5]。この行為が反乱を引き起こすことになり、スイス同盟の結成につながった。チューディによると、テルは1315年のモルガルテンの戦いでオーストリアと再び戦った。またチューディは、テルは1354年に、シェーヘンタール川で子供が溺れるのを助けようとして死んだとも述べている[6]
近世における受容
年代記

「ザルネンの書」の書かれた1570年以前に比べると、それ以降にはテルの伝説が数多くある。それにはルツェルンの歴史家メルヒオール・ラス(1450?1499)の著作も含まれる。これは1482年に、「同盟の基礎の歌」や、コンラート・ユスティンガーの「ベルン年代記」と「ベルン州史」など、それ以前の雑多な記述をまとめたものである[7]。もう一つは、テルの物語のもっとも古い印刷物である、ペータマン・エッテルリン「スイス同盟の歴史」(1507年)がある[8]

チューディーは1572年の死の前までに「スイス年代記」をまとめた。これは150年以上の間、1734-36年に編集されるまで手書きの形で残っていた。そのためこの年代記の刊行時期は明確でなく、完成したのも1572年以前としかわからない。それはチューディーが伝説として残したものだが、1730年代に印刷版が出るまでは、後世の作家にとって重要な版だった[9]
民衆の人気インメンセとキュスナハトの途中にあるテル礼拝堂(1638年築)のHohle Gasse.

16世紀初めには、テルの活躍の場への観光を含めて、その人気の広がりを確認できる。16世紀初め、Heinrich Brennwald は、テルが捕らえられたボートから脱出した近くの礼拝堂を示している。三十年戦争軍人ピーター・ハゲットは、テルが逃げ込んだ礼拝堂を訪問したことを、日記に残している[10]

テル劇(Urner Tellspiel)の最初の記録は、ウーリ州アルトドルフで1512か13年に行われたのを見られている[11][7]

ウーリ州ビュルグレンの教会には、1581年にテルを偲んだ鐘を設置し、その近くの礼拝堂には1582年にシェーヘンタールでのテルの死を描いたフレスコ画がある[12]
3人のテル

三人のテル(die Drei Tellenまたはdie Drei Telle)は、1653年のスイス農民戦争を象徴している。それは14世紀初めにハプスブルク家に反抗した時の成功を再現しようとした民衆の希望が表れている。

18世紀までには、「3人のテル」は眠れる英雄伝説に関連づけられるようになった。彼らはリギ山の洞窟で眠っていると言われていた。時が来ればテルが復活することは1653年に「テルの歌」で予言されていて、3人のテルの衣装をまとった役者の扮装で象徴され、歴史的な衣装の役者による暗殺の実行で最高潮になる。

16世紀でのテルは、結局は「リュトリの誓い」の伝説に結びついていき、「3人のテル」は「原初同盟の3人、ウォルター・フュルスト、アーノルド・フォン・メルヒタール、ヴェルナー・シュタウファッハに似せられている。

1653年、歴史的な衣装の3人の男がシュフハイムに現れた3人のテルを表現した。他にもフライアムトやエメンタールで、3人のテルの真似をした者が現れた。

最初の3人のテルの役者は、シュフハイムのHans Zempと、Kaspar Unternahrer、およびハースレのUeli Dahindenである。彼らは戦争の間、多くの重要な農民会議に現れ、スイス同盟によるハプスブルグ皇帝への抵抗運動が続いていることの象徴となった。UnternahrerとDahindenは、Sebastian Peregrin Zwyerの兵士が到着する前に、エントレブッフ・アルプスに逃げ、Zempはアルザス地方に脱出した。謀反の制圧の後に農民たちは、テルの伝説につながる、ルツェルン村長のUlrich Dullikerの殺害を始めとする暴君の暗殺に賛成した[13]


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