ウィリアム・ダンピア(William Dampier, 1651年 - 1715年3月)は、イングランドの私掠船長(海賊、バッカニア)、船長、作家、博物学観察者。ニューホラント(オーストラリア)、ニューギニアを探検した最初のイングランド人。世界周航を3回成し遂げた最初の人物である。 ダンピアは1651年6月8日にサマセット州イーストコーカーで生まれ、洗礼を施された。彼は16歳で船乗りになった。エドワード・スプラグ 1670年代のダンビアは中米のスパニッシュ・メインを荒らし回るバッカニアの乗組員で、カンペチェ湾に2回訪れている。これが彼の最初の世界周航につながる。彼は1679年にダリエン地峡の太平洋岸におけるスペイン船拿捕に参加していたし、その海賊団はカリブ海に戻る前にペルーのスペイン植民地を略奪している。 クックという私掠船長との出会い(1683年)が、ダンピアの前人未踏の業績への道を決定づけた。クックはホーン岬経由で太平洋に入り、1年にわたってスペイン領(ペルー、ガラパゴス諸島、メキシコ)を略奪した。この遠征は徒党を組んで行われ、艦隊は10隻もの船を擁したことさえあった。クックはメキシコで死に、デイヴィス船長が新たな頭目となった。ダンピアはチャールズ・スワン (Charles Swan
前半生
最初の世界周航
1688年初頭、シグネット号はオーストラリア北西岸キング・サウンド近くに上陸した。船を修理する間、ダンピアは現地の動植物を記録した。その年、彼と船員2名は、掟によって、ニコバル諸島で置き去りにされた。彼らは小さな船を造り、スマトラ島のアチンにたどり着いた。さらなる冒険の後、1691年、ダンピアは喜望峰を回ってイングランドに帰還した。無一文だったが、貴重な手記を持って。 1697年に「最新世界周航記」として出版されたダンピアの手記は、海軍省に注目された。1699年には、ローバック号 (HMS Roebuck
ローバック号の遠征
1699年1月14日に出航し、7月26日にはオーストラリア西部、シャーク湾のダーク・ハートグ島に到達した。水を求めて沿岸を北東に進み、ダンピア群島、ローバック湾に達したが、水は得られず、ティモール島に向けて北上することになった。彼は東に進路をとり、1699年12月3日にはニューギニアを発見したが、北に通過した。東進し、ニュー・ハノーヴァー島、ニュー・アイルランド島、ニュー・ブリテン島とたどり、それらビスマルク諸島とニューギニアの間に横たわるダンピア海峡を発見した。
イングランドへの帰途、1701年2月21日、ローバック号はアセンション島近くで難破し、乗組員は5週間も島で過ごす羽目になった。4月3日に東インド会社の船に救助され、8月にイングランドに帰還した。
書類多数がローバック号とともに失われたが、ダンピアはオーストラリア、ニューギニアに関する多くの新たな海図(海岸線、貿易風、潮流が記されている)を喪失から免れさせることができた。
帰還したダンピアは、虐待のかどで軍法会議に処された。往路の途中、ダンピアは乗組員ジョージ・フィッシャーを船から追放し、ブラジルで投獄させていた。フィッシャーはイングランドに戻り、海軍省に不服を申し立てたのだった。ダンピアは怒りに満ちた答弁書を書いたが、結局有罪とされ、航海の報酬を減らされ、海軍を解雇された。 ダンピアは1699年から1701年の遠征の記録 A Voyage to New Holland を書いた後、私掠活動に戻った。 1701年に勃発したスペイン継承戦争に際して、イングランドの私掠船長たちはフランスとスペインの利権を叩く用意を進めていた。ダンピアは、政府船セント・ジョージ号(大砲26門、乗組員120名)の指揮官に任命された。ガレオン船シンク・ポーツ号(大砲16門、乗組員63名、Cinque Ports
2回目の世界周航
彼らはフランス船の襲撃に失敗したが、スペインの小船を3隻と、550トン船を1隻拿捕した。
この遠征で最も注目されたのは、アレキサンダー・セルカークを取り巻く一連の出来事である。シンク・ポーツ号の船長トーマス・ストラドリングと、航海長を務めていたセルカークとの間には、いさかいが絶えなかった。ダンピアの指揮するセント・ジョージ号と別れた後の1704年10月、シンク・ポーツ号はチリ沖ファン・フェルナンデス諸島の無人島に補給のため停泊した。セルカークはシンク・ポーツ号の耐久性を強く懸念しており、ストラドリングとの口論の後、ただ一人で島に置き去りにされた。セルカークは4年と4ヶ月もの間、島から出ることができず、彼の体験はダニエル・デフォーの小説ロビンソン・クルーソーの基となった。
セルカークの懸念はまったく正しかった。