ウィリアム・ダラント
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この項目では、歴史学者・哲学者について説明しています。ゼネラルモーターズの創業者については「ウィリアム・C・デュラント」をご覧ください。

ウィリアム・ダラント
William Durant
誕生 (1885-11-05) 1885年11月5日
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州ノースアダムズ
死没1981年11月7日(1981-11-07)(96歳)
アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
職業歴史家、著作家、哲学者、教師
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴セントピーターズ・カレッジ(1907年卒、学士)
コロンビア大学(1917年修了、哲学博士)
ジャンルノンフィクション
主題歴史、哲学、宗教
文学活動哲学他
配偶者アリエル・ダラント
子供エセル・ダラント
影響を受けたもの

様々な小説家など

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ウィリアム・ジェイムズ・ダラント(: William James Durant、[d??rant]、通称ウィル・ダラント、通用される日本語表記ではウィル・デュラント、ウィル・デューラント、1885年11月5日 - 1981年11月7日)は、アメリカ合衆国マサチューセッツ州出身の著作家歴史家哲学者である。妻のアリエル・ダラントと共同で著し、1935年から1975年に出版した11巻本、『文明の話』でよく知られている。それ以前の1924年に出版した『哲学の話』でも知られており、「哲学を大衆化することに貢献した画期的な作品」だと言われた[1]

ダラントは哲学について全体像の感知、すなわち物事を「sub specie totius」(全的相の下に)見るものと考えた。これはバールーフ・デ・スピノザの「sub specie aeternitatis」(永遠の相の下に)という成句にヒントを得たものだった。ダラントは歴史に関する知識の大きな実態を統一し人格化することを求めた。それは膨大な量に成長しており、深遠な専門分野に細分化されていたので、それを時代に合わせるために活性化させようとした[2]

ダラント夫妻は1968年にピューリッツァー賞 一般ノンフィクション部門で受賞し、1977年には大統領自由勲章を贈られた。
初期の経歴

ダラントは1885年11月5日に、マサチューセッツ州ノースアダムズで、フランス系カナダ人のカトリック教徒の家に生まれた[3]。父はジョセフ・ダラント、母はメアリー・アラードであり、カナダケベック州からアメリカ合衆国に大挙移住してきた民に属していた。

1900年、ダラントは、ニュージャージー州ジャージーシティのセントピーターズ準備学校、後のセントピーターズ・カレッジでイエズス会の教育を受けた。歴史家のジョーン・ルービンはこの時期について、「いくらか若者らしい浮かれがあったものの、母が彼にそうあって欲しいと願ったことを実現すると約束できる職業、すなわち聖職者について準備を始めていた。その方法で進み始めるにあたって、イェール大学コロンビア大学の上流階級の修行からは遠く離れ、自身の環境の中で相当する文化的な権限を提供したと論じられるかもしれない」と記している[4]

1905年、ダラントは社会主義哲学での実験を始めたが、第一次世界大戦後、「権力への欲望」があらゆる形態の政治挙動の下にあると認識するようになった[4]。しかし、戦前であっても、「彼の感受性の別の側面が、自分の急進的な傾向と競合した」とルービンは記している。ルービンは「それらの中で最も具体的なものは哲学に向けたた執拗な指向だった」と付け加えた。スピノザに傾注したそのエネルギーにより、バクーニンにはほとんど興味を示さなかった。この時代から「彼の自我のモデルを保持することは、『貴方自身である』ことを差し止めるアナーキストに同調できなくした鍛錬に基礎を置いていた。」と記している。ダラントは、「人の慎重な自己であることは、『我々の熱情の奴隷になる』衝動の『上に行く』ことを意味し、『勇気ある傾倒』の代わりに同義的な大義で行動することを意味している」と説明していた[4]

ダラントは1907年に卒業した。アーサー・ブリスベーンの「ニューヨーク・イブニング・ジャーナル」で、週給10ドルで記者を務めた。この「イブニング・ジャーナル」では性犯罪に関する記事を幾つか書いた。1907年ニュージャージー州サウスオレンジのシートン・ホール大学ラテン語フランス語英語幾何学の教師を始めた。
教師としての経歴ニューヨーク市のモダン・スクール、1911年または1912年、ダラントが生徒と共に立っている。この写真は雑誌「モダン・スクール」の表紙に使われた

1911年、ダラントは大学を離れた。労働者階級の子弟を教育するための先進的な学校であるフェラー・モダン・スクールの校長になった。そこでは教師も兼ねていた。この学校の支持者であるアルデン・フリーマンがダラントのヨーロッパ旅行を後押ししてくれた[5]。モダン・スクールでは、15歳の生徒チャヤ・(アイダ)・カウフマンと恋に落ちて結婚した。彼女は後にアリエルというニックネームで呼ばれた。この夫妻には娘のエセルが生まれ、また息子のルイスを養子にした。

1914年までに、「人間の悪徳の暗示」を拒否するようになっていたと、ルービンが記しており、「急激な社会変化からは身を退く」ようになっていた。ルービンは彼の哲学におけるこれらの変化を次のように要約していた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}人間の進歩をプロレタリアートの隆盛に結びつける代わりに、幼い子供の笑い声から避けられない結果にするか、かれの両親の結婚の忍耐にするかだった。後にアリエル・ダラントが要約したように、彼の30代半ばまでに、彼の人生の残りで精神的な化学を支配した感傷的で理想化する愛の混ざり合い、哲学、キリスト教、および社会主義を混ぜ合わせていた。これらの属性は最終的に、急進主義を代用の信仰とすることから、また若いアナーキストを代替的職業として教えることから遠ざけることになった。その代りに、1913年遅くに別の追求を始めた。文化の普及ということだった。[4]

1913年、ダラントは教師の職を辞した。暮らしを建てるために、長老派教会で5ドルないし10ドルの料金で講義を始めた。この講義の材料が『文明の話』の出発点になった。
著作活動

1917年、ダラントはコロンビア大学で哲学の博士課程に進みながら、最初の著作である『哲学と特別問題』を執筆した。哲学は社会の現実にある問題を避けていたので十分成長してこなかったという概念を論じた。同年、コロンビア大学から博士号を取得した[6]。同大で講師も務めていた。
『哲学の話』

『哲学の話』は「リトル・ブルー・ブックス」シリーズ(労働者を対象にした教育パンフレット)として始まり、人気が出たので、1926年にハードカバーとしてサイモン & シャスターが再度出版して[7]ベストセラーとなり、それでダラントは財政的に独立を果たせたので、世界を数回旅し、『文明の話』を書くために数十年間を費やす余裕ができた。教師の仕事を辞め、11巻本となった『文明の話』の執筆を始めた。1940年代初期にはほぼ10年間近くをかけて人権に関する『相互依存の宣言』の原稿を書いた。これは「ブラウン対教育委員会事件」の判決が出て、アメリカの公民権運動に火がつけられる前のことだった。この『宣言』は1945年10月1日に連邦議会議事録に掲載された。
『文明の話』

ダラント夫妻は彼らの言う「一体の歴史」を創るために『文明の話』を通じて骨を折った。歴史の「特殊化」に対する極におき、「専門家の信仰」と言われてきたものを前もって拒否した。その目的は文明の「伝記」を書くことであり、この場合、通常の戦争、政治、偉大さや悪事の伝記ばかりでなく、文化、芸術、哲学、宗教、さらにはマスコミの興隆までを含む西洋文明を論じた。『文明の話』の大半は、それが検討した2,500年間の毎日の人々の生活状態を検討している。その証言には臆面も無く道徳的な枠組みも持ち出しており、「弱者に対する強者の支配、単純な者に対する賢者の支配」の反復を常に強調している。『文明の話』は最も成功した史料編纂シリーズである。


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