ウィリアム・スチュワート・ハルステッド
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William Stewart Halsted
ウィリアム・スチュワート・ハルステッド (1922年撮影)
生誕1852年9月23日
ニューヨーク市
死没1922年9月7日 (69歳没)
ジョンズ・ホプキンズ病院
国籍アメリカ合衆国
研究分野医学
研究機関ジョンズ・ホプキンズ病院
出身校イェール大学; コロンビア大学医学部
主な業績米国における研修医制度の開発
乳房切除
影響を
受けた人物セオドア・ビルロート
プロジェクト:人物伝
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ウィリアム・スチュワート・ハルステッド(William Stewart Halsted、1852年9月23日 ? 1922年9月7日)は、米国医師外科医医学者、医学教育者。使い捨てゴム手袋による無菌手術や麻酔の新手法、乳癌の根治的手術を開発したことで知られる。

ウィリアム・オスラー、ハワード・アトウッド・ケリー(英語版)、ウィリアム・ヘンリー・ウェルチらとともに、ハルステッドはジョンズ・ホプキンズ病院の「ビッグ・フォー」とされている。[1]

彼の個人的な生活についてはコカインに、後にはモルヒネ依存症となったことが知られている。[2][3] (当時はコカインもモルヒネも違法ではなかった。) 依存症はハルステッド自身の経験と実験からコカインの麻酔薬としての効果の研究のきっかけとなった。  [4]
生涯
出生からコロンビア大学までイェール大学卒業時のハルステッド(1874年)

1852年9月23日、ニューヨークで生まれる。生家はニューヨーク市に2軒の家を有する裕福な家庭だった。長老派教会の教えを受けたが、成人期までは不可知論者だった。自宅で教育を受けた後、1862年にマサチューセッツ州モンソンの寄宿学校へ入学した。1869年、マサチューセッツ州アンドーバーにあるフィリップス・アカデミーを卒業し、イェール大学に入学。サッカーチームのキャプテンであり、野球をし、クルーチームに入っていたが、学業成績は平均を下回っていた。大学4年のときに、医学への興味が沸き、医学部の講義に出席して解剖学生理学について学び始めた。

1874年、外科と手術を専門とするコロンビア大学医科大学院(英語版)に入学し、マンハッタンにあるベルビュー病院(英語版)のインターンシップに参加した。この病院のインターンは、医学の学位を持つ学生のみに開かれていたが、ハルステッドは学位試験に上手く合格し参加することができた。このインターンでは、1867年にジョゼフ・リスターが考案した消毒技術が紹介され、ハルステッドは感染症の問題に興味を持った。1877年、医学博士号を習得して医科大学院を卒業した。
渡欧

1878年4月、ニューヨーク病院(英語版)で研修医として働き始めた。このとき、親友となるウィリアム・H・ウェルチと出会う。このとき、ウェルチはベルビュー医科大学で研究室をすでに持っていたとされている。

研修医となったハルステッドだったが、アメリカでは医学部卒業生の医学キャリアを訓練する制度がなかったため、ハルステッドは10月に渡欧し、ドイツとオーストリアで著名な多くの外科医や医学者のもとで学んた。その中には、ハルステッドが導入する鼠径ヘルニアの消毒液を用いた手術などを考案したエドアルド・バッシーニ(英語版)や、また胃切除手術で知られるテオドール・ビルロートと弟子のヤン・ミクリッツ・ラデツキー(英語版)、甲状腺切除手術のためのコッヘル鉗子を開発した エミール・テオドール・コッヘルもいた[5]。折しも、ヨーロッパでは癌の研究が広まり始めたばかりで、この時のハルステッドの経験が後にアメリカで考案する医術に影響を与えた。
アイデアの実践

1880年、ニューヨークに戻り、複数の病院で手術を行う訪問医を務める一方で、早速様々なアイデアを実行に移した。ベルビュー病院では、消毒の無菌空間を作るためにテントを張る事を提案した。この提案には当時10,000ドルかかった。

また、ハルステッドは講義も担当したが、古典的な教授方法を改めるために教室を改造し、クラスのトップにいる生徒のために、理論と組み合わせた実践的な体験のできるような空間に変えた。このため、ハルステッドは非常に人気がありカリスマ的な教師となった。

1882年、アメリカで最初の胆嚢手術を行った。患者は自身の母親で、実家の台所のテーブルで7つの胆石を取り除いた。また、妹が出産による失血で瀕死状態だったため、自分の血を抜き、妹に輸血をした。これがアメリカで最初の緊急輸血だった。

同じく1882年、ルーズベルト病院(英語版)でアメリカで最初の乳癌に伴う「根治的乳房切断術(英語版)(ハルステッド手術、ハルステッドの術式)」を実施した。ハルステッドは癌が血流を介して転移するという考えを持っていたので、腫瘍を十分に局所的に除去する事で癌が治癒すると考えていた。この手術法は1世紀前にフランスのバーナード・ペイリヘ(英語版)によって行われ、ドイツの外科医が行っていたが、ハルステッドは更に切除する箇所を深め、最終的に大胸筋鎖骨近くのリンパ節、脇の下近くのリンパ節を除去した。根こそぎ切除するため、肋骨の輪郭が浮き出た格好になってしまい、腕の動きも悪くなる非常に過酷な手術だった[6]。1898年にニューオーリンズで開催されたアメリカ外科協会(英語版)の会議で、ハルステッドは局所再発の割合が大幅に減少したと結論づけた。さらに1907年にも多くの調査を元に同じ結果を示した。

ただし、局所再発と遠隔転移は自然放置と変わらないとされており[6]、現在乳癌の生存率は、手術中に除去される量よりも、手術前にガンが転移する量と密接に関連していることが知られている。もっとも、これらの手術の成功でハルステッドは外科医としての名声が徐々に高まっていった。
局所麻酔とコカイン中毒

1884年、ジークムント・フロイトの示唆をうけてコカインによる世界初の局所麻酔(局所麻酔はアイラウの戦いにて足を長時間低温で冷やすとそのようになるという発想から考案され始めた)についてのオーストリア(のち1888年にアメリカに移住)の眼科医カール・コラー(英語版)の報告書を読み、ハルステッドもコカインの局所麻酔の価値を見出した。ハルステッドは神経ブロックを考案し[7]、1885年には神経ブロック法と表面麻酔法を発表した[8]

これらの麻酔法の考案のために、ハルステッド自身や同僚は互いに麻酔の実験をし合ったため、彼らはコカイン中毒になってしまった。同年、『New York Medical Journal』に記事を発表した際、親友でファイアストンの創業者であるハーベイ・ファイアストーンが一貫性のない文章から中毒の重大さを気付き、療養のためのヨーロッパ旅行を進めている。ハルステッドはヨーロッパ旅行に赴き、帰国後はロードアイランド州プロビデンスのバトラー療養所(英語版)で7ヶ月療養を受けた。しかしこの療養所ではモルヒネを使ってコカイン中毒を治そうとしたため、ハルステッドは新たにモルヒネ中毒になってしまった。

薬物中毒は、ハルステッドにニューヨークでの医学キャリアの終わりを告げることとなった。しかしモルヒネ依存症になりつつも、彼はその後も先駆的な外科医としての功績を残していくことになる。
ジョンズホプキンス病院

1886年、バトラー療養所を退院したハルステッドはメリーランド州ボルチモアに移り、友人のウェルチと新しいジョンズ・ホプキンズ病院の組織化と創設に関わった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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