ウィリアム・ジェームズ
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ウィリアム・ジェームズ
William James
1890年代のジェームズ
生誕 (1842-01-11) 1842年1月11日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク
死没 (1910-08-26) 1910年8月26日(68歳没)
アメリカ合衆国ニューハンプシャー州キャロル郡タムワース
時代19世紀の哲学
20世紀の哲学
地域西洋哲学
学派プラグマティズム
機能心理学
根本的経験論
研究分野プラグマティズム、心理学心の哲学宗教哲学認識論意味論
主な概念信じる意志、根本的経験論Radical empiricism、ジェームズ・ランゲ説、心理学者の誤謬
影響を受けた人物

チャールズ・サンダース・パースデイヴィッド・ヒューム、ジュール・ルキエ、アフリカン・シュピール、エマヌエル・スヴェーデンボリ、F.C.S.シラーFerdinand Canning Scott Schiller、デビッド・ハートリー、シャルル・ルヌーヴィエヘルマン・フォン・ヘルムホルツピエール・ジャネエルンスト・マッハルイ・アガシーなど

影響を与えた人物

ジョン・デューイエトムント・フッサール、F.C.S.シラーFerdinand Canning Scott Schiller、アンリ・ベルクソンジョージ・サンタヤーナヒラリー・パトナムリチャード・ローティルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、モリス・ラファエル・コーエン、エミール・デュルケームW・E・B・デュボイスバートランド・ラッセル、エドウィン・ホルト、ジミー・カーターなど

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ウィリアム・ジェームズ(William James、1842年1月11日 - 1910年8月26日)は、アメリカ合衆国哲学者心理学者である。意識の流れ理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』や、アメリカ文学にも影響を与えた。パースデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家ヘンリー・ジェームズ[1]。著作は哲学のみならず心理学生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。

日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。後の認知心理学における記憶の理論、トランスパーソナル心理学に通じる『宗教的経験の諸相』など、様々な影響をもたらしている。

ジェームズは1875年には、アメリカで初の心理学の講義を開始し、研究室を設けた[2]。ドイツのヴィルヘルム・ヴントが研究室を用意したのは、この4年後の1879年である。
生涯

ジェームズは神学者ヘンリー・ジェームズ・シニアの長男として、1842年ニューヨークに生まれた。

父ヘンリー・ジェームズSr.の影響

 父ヘンリーは1841年からエマヌエル・スヴェーデンボリに興味を持ち、その関係でラルフ・ワルド・エマーソンと親交を持つ。そのため、エマーソンがジェームズの神父となっている。ただ、エマーソンの思想では満足できず、エマーソンから同じくスヴェーデンボリに影響を受けたカーライルを紹介されている。

その後、同じくスヴェーデンボリに影響受けたフリーエ主義のファームに関わる。1841年から1847年までマサチューセッツ州ウェスト・ロクスベリーで続いた共同生活の実験であるブック・ファームの元メンバーや、フランスの社会哲学者シャルル・フーリエ(1772-1837)の思想から発展し、ブルック・ファームの失われた数年間に大きな影響を与えたユートピア的社会主義(空想社会主義)の学派であるフーリエ主義(フーリエ主義)に興味を持つようになった。

父ヘンリーは子供たちが真に善を愛し、共感するがゆえに善を求めるような正しい人間となり、自由闊達な精神の持ち主となることを願い、この方針のもとに子供たちは教育され、家庭生活は設計された。父ヘンリーがいくたび居を転じ、三たびまでも家族を伴って大西洋を渡りヨーロッパ各地を旅したのも、そのためであった。[3]

ウィリアム・ジェームズは、大西洋を横断する折衷的な教育を受け、ドイツ語とフランス語の両方に堪能になる。ジェームズ・ハウス・ホールドでの教育は、コスモポリタニズムを奨励した。一家はウィリアム・ジェームズがまだ幼い頃にヨーロッパに2度旅行した。

1855年、裕福な一家はヨーロッパへ移転し、パリジェノヴァなどで過ごす。年子の弟ヘンリー・ジェイムズは有名な作家となった。自由な家庭の雰囲気の中で育ち、7歳から3年間小学校に通って以降、大学までは学校教育を受けていない[4]。1855年から1860年にかけて、ジェームズ一家はロンドン、パリ、ジュネーブ、ブローニュ・シュル・メール、ロードアイランド州ニューポートを旅し、父親の現在の興味と出版事業に従えば、資金が少なくなるとアメリカに引退した。彼らの最も長い滞在はフランスであった。

1860年にアメリカに一家は帰国する。ジェームズは画家を志し、米国一流の画家であったロードアイランド州ニューポートウィリアム・モリス・ハントの門に入ったが、半年で才能がないことを自覚して断念した。一方、弟のヘンリーはウィリアム・モリス・ハントの弟のリチャード・モリス・ハント(英語版)の奨めでモリス・ハントの門下生であったジョン・ラ・ファージとフランス文学、特にバルザックの話を皮切りに親交を持っている。

1861年に南北戦争が勃発するとジェイムズは奴隷制度に批判的であったにもかかわらず北軍への参加を躊躇する。結局、従軍するか否かを迷っている間に南北戦争が終結してしまい、このことがジェイムズに深い苦悩をもたらす[5]。一方、三男のガース(Garth Wilkinson “Wike” James(1845-1883)は奴隷制度廃止論者であり南北戦争の北軍の初期のアフリカ・アメリカ人部隊(英語版)で参加して、the Battle of Fort Wagner(英語版)に参加。更には父ヘンリーとともにフロリダの解放奴隷の労働力を利用した南部の綿花栽培の発展を提唱して、綿花栽培を手掛けている。

1861年(19歳)ハーバード大学の理学部 (the Lawrence Scientific School of Harvard School)に入学。

化学者時代のチャールズ・エリオットから科学を教わる。[6]


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