ウィリアム・シャーマン
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この項目では、アメリカの軍人について説明しています。アメリカの外交官については「ウィリアム・コートニー・シャーマン」をご覧ください。
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ウィリアム・テカムセ・シャーマン
William Tecumseh Sherman
マシュー・ブレイディ撮影
生誕1820年2月8日
オハイオ州、ランカスター
死没1891年2月14日
ニューヨーク市
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1840 - 1853、1861 - 1884
最終階級大将
署名
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ウィリアム・テカムセ・シャーマン(William Tecumseh Sherman, 1820年2月8日 - 1891年2月14日)は、アメリカ合衆国の軍人。ミドルネームの Tecumseh は、19世紀初頭にアメリカ合衆国と戦ったショーニー族酋長テカムセにちなんだもの。

南北戦争において、焦土作戦アメリカ南部で展開。近代戦略の実行者、または近代戦の創始者、最初の近代将軍などと評価される。彼の行ったジョージア州アトランタを焼き払った後の「海への進軍」、およびサバナよりの北上作戦により、南部経済は壊滅し、南北戦争の終結を早めたとされる。

作家、戦略論家としても知られ、数多くの本を出版し、アメリカ軍の戦略論の研究のために士官のための上級学校である現在のアメリカ陸軍指揮幕僚大学(Command and General Staff College)の元になる学校を築くなど、近代戦略論史に多大な影響をもたらした。

弟は独禁法(反トラスト法)発案者で有名なジョン・シャーマン連邦上院議員。
前半生

1820年2月8日オハイオ州ランカスターで生まれる。9歳の時に判事であった父親が死亡。近所に住む家族の友人でもあった当時のオハイオ州選出のアメリカ合衆国上院議員、後に内務長官に就任したトマス・ユーイングの家に引き取られる。この際にウィリアムの名前を与えられた。

16歳の時にウエストポイントに入学、1840年に6位の成績で卒業。砲兵少尉として、フロリダでの実戦を経験する。米墨戦争では、カリフォルニアで後方支援などの事務を行い大尉に昇格する。

1850年にユーイングの娘と結婚、1853年に一度軍を退役。サンフランシスコに移住し、銀行を経営する。サンフランシスコでは複数の事故に遭い、また銀行経営の失敗からストレス性の病気になった。

1856年カリフォルニア州政府の軍の少将に就任。1857年に銀行が倒産して、カンザス州に移住する。

カンザス州では、法律家として再起を計るが失敗。1859年ルイジアナ州に移り、後にルイジアナ州立大学となる新たに設立された州立軍学校で学長となり教鞭を取る。このため、シャーマン将軍はルイジアナ州立大学の初代学長とされる。

1861年に南部が独立を宣言すると、シャーマンはルイジアナ州のバトンルージュにある連邦軍施設の接収を知事に命じられるが、拒否して学長の地位を退任する。この際に南部の敗戦を的確に予測していたとされる。退任後数ヶ月のみ、鉄道会社の経営に携わるが、すぐワシントンD.C.に呼び戻された。
南北戦争での軍務

ウエストポイント時代の友人の多くが南部の将軍に就任したが、シャーマンは北軍の第13歩兵連隊の指揮官大佐に1861年5月14日に就任。同年7月21日第一次ブルランの戦いでは、北部軍総崩れの中、軽傷を負いながらも善戦。リンカーン大統領は、シャーマンを准将に昇格させ、ケンタッキーカンバーランド戦線(ケンタッキーからテネシーにかけてのカンバーランド川沿い)の司令官とする。

ケンタッキーでのシャーマンは、過労とストレスで一時期精神に異常を来たし、オハイオ州の実家での静養を余儀なくされるが、1862年4月6日から7日にかけてのシャイローの戦いではグラント配下の師団司令官として善戦。負傷しつつも師団を指揮し、北部軍の敗走の被害を抑えた。この功績で同年5月1日には少将に昇格する。

1863年頃までに、グラントとの間に深い信頼関係を築く。ストレスに弱く、精神的に不安定であったとされるシャーマンと、アルコール依存症であったグラントは、精神的に低調であった際に互いにサポートしあったとされる。1863年7月のビックスバーグの攻略、同年12月の第三次チャタヌーガの戦いの功績は二人で分け合っている。

1864年にリンカーンがグラントをワシントンに呼び戻しアパラチア以東の総司令官および北部軍の総司令官に任命すると、シャーマンは西の総司令官に昇格する。


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