ウィリアム・サファイア
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ウィリアム・サファイア
2006年の大統領自由勲章の授章式にて
現地語名William Safire
誕生William Lewis Safir
(1929-12-17) 1929年12月17日
アメリカ合衆国 ニューヨーク州ニューヨーク
死没2009年9月27日(2009-09-27)(79歳)
アメリカ合衆国 メリーランド州ロックビル
職業著述家、コラムニスト、辞書編集者、ジャーナリスト、スピーチライター
国籍 アメリカ合衆国
ジャンルノンフィクション
主題政治
配偶者Helene Belmar Julius
ウィキポータル 文学
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ピューリッツァー賞
受賞年1978年
受賞部門論説部門

ウィリアム・サファイア(William Safire([?safa??r])[1]1929年12月17日 - 2009年9月27日[2]は、アメリカ合衆国著述家コラムニストであり、アメリカ合衆国大統領スピーチライターである。

ニューヨーク・タイムズ』紙で長年にわたり政治コラムニストとして活動したほか、『ニューヨーク・タイムズ・マガジン』にて言葉の語源や新しい用法、珍しい用法など、言語に関連したコラム"On Language"(言語について)を執筆していた。
若年期

サファイアはウィリアム・ルイス・サファイア(William Lewis Safir)として1929年12月17日ニューヨークユダヤ人の家庭に生まれた[3][4]。父方はルーマニアに出自を持っていた[5]。後に発音上の理由から名字の語尾に"e"を付けたが、親戚の中にはオリジナルの綴りを使い続けている人もいた。

サファイアは、ニューヨークにある専門の公立高校・ブロンクス科学高校を卒業した。シラキュース大学に進学したが、2年で中退した。後に、1978年と1990年にシラキュース大学で卒業式の演説を行い、同大学の評議員となった。
キャリアアポロ11号が月で遭難した場合を想定して、サファイアが大統領首席補佐官H.R.ハルデマンに提出したメモ

サファイアは1955年から1960年まで広報担当者を務めた。それ以前は、ラジオ・テレビのプロデューサーや、陸軍特派員を務めていた。1959年には、広報担当者として勤務していた住宅メーカーが、モスクワソコーリニキ公園で開催された「アメリカ博覧会」にモデルハウスを出展したが、視察に来たリチャード・ニクソンニキータ・フルシチョフが、そのモデルハウスにおいて有名な台所論争を展開した。広く出回っているその様子の白黒写真は、サファイアが撮影したものである[6]。サファイアは1960年1968年の大統領選挙でニクソンの選挙運動に参加した。1968年のニクソンの勝利後、サファイアはニクソンと副大統領スピロ・アグニューのスピーチライターを務めた。アグニューの有名な言葉である"nattering nabobs of negativism"(ネガティブなおしゃべり)はサファイアが生み出したものである。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}英語版ウィキソースに本記事に関連した原文があります。In Event of Moon Disaster

サファイアは、アポロ11号の宇宙飛行士たちがで遭難した場合にニクソン政権がとるべき対応を考え、そのメモを大統領首席補佐官H.R.ハルデマンに提出した[7][8][7]。このメモには、ニクソン大統領がテレビで読み上げるIn Event of Moon Disaster(月での災難に際して)と題した追悼文が記載されていた[9]。また、この演説の前に大統領が宇宙飛行士の妻たちに電話するべきであること、演説の後、ミッションコントロールセンター(英語版)が月着陸船との通信を終了する時点で、聖職者が海葬に準じた手順で儀式を行い、宇宙飛行士らの魂を「深い淵の底」に委ね、神に祈りを捧げることとしていた。『フォーリン・ポリシー』誌の2013年の記事の中で、ジョシュア・キーティング(英語版)はこの演説原稿を「最も優れた未発表の『終末の日の演説』」(The Greatest Doomsday Speeches Never Made)の6つの中の1つに挙げている[10]

サファイアは、1973年に政治コラムニストとしてニューヨーク・タイムズ社に入社した。サファイアは入社後間もなく、自分がニクソンの承諾の下で「国家安全保障」の盗聴の対象になっていたことを知った。サファイアは、自分が米国内の仕事しかしていなかったことを述べた上で、ニクソンのために困難な10年間を働いたのは、ニクソンに(あるいはトカゲの目をした偏執狂が彼の承認なしに行動したのかもしれない)自分の会話を盗み聞きさせるためではないと、「抑制された怒り」と称して書いている[11]

1978年、サファイアはバート・ランス(英語版)の予算不正疑惑についての論説でピューリッツァー賞論説部門(英語版)を受賞したが、1981年、ランスは9つの容疑全てについて無罪判決を受けた。サファイアの1980年10月27日のコラム「アヤトラの投票」は、その年の大統領選挙ロナルド・レーガンの選挙広告に引用された[12]

サファイアはNBCの『ミート・ザ・プレス』にも頻繁に出演していた。

2005年、サファイアは政治コラムを引退することを発表した。それに対し、『ニューヨーク・タイムズ』紙の発行人アーサー・オックス・サルスバーガー・ジュニア(英語版)は次のように述べた[13]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}

ビル・サファイアのいない『ニューヨーク・タイムズ』など考えられず、ビルの挑発的で洞察力に富んだ解説は、1973年に彼が初めて当紙の論説欄に登場して以来、読者を虜にしてきました。彼のコラムを読むことは、全米、そして世界中の読者にとって、重要で楽しい一日の一部となりました。あなたが彼に同意するかどうかはわかりませんが、彼の文章は楽しく、情報が豊富で、魅力的なものです。

サファイアは1995年から2004年までピューリッツァー賞の選考委員を務めた。オピニオン・コラムを終了した後は、ダナ財団(英語版)の常勤最高経営責任者に就任し、2000年からは会長を務めた。2006年には、ジョージ・W・ブッシュ大統領から大統領自由勲章を授与された。


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