イギリスの政治家初代グレンヴィル男爵
ウィリアム・グレンヴィルWilliam Grenville
1st Baron Grenville
ジョン・ホプナー画のグレンヴィル卿
生年月日1759年10月25日
没年月日 (1834-01-12) 1834年1月12日(74歳没)
出身校オックスフォード大学クライスト・チャーチ
所属政党ホイッグ党→小ピット派トーリー党→ホイッグ党
称号初代グレンヴィル男爵、枢密顧問官(PC)
配偶者アン(旧姓ピット)
親族ジョージ・グレンヴィル(父)、ジョージ・ニュージェント=テンプル=グレンヴィル(長兄)、トマス・グレンヴィル
初代グレンヴィル男爵ウィリアム・ウィンダム・グレンヴィル(英語: William Wyndham Grenville, 1st Baron Grenville, PC PC (Ire)、1759年10月25日 - 1834年1月12日)は、イギリスの政治家、貴族。
首相ジョージ・グレンヴィルの三男であり、1782年に庶民院議員に当選して政界入り。はじめ従兄にあたる小ピットに近い立場を取り、その第1次内閣で閣僚職を歴任した。特に外務大臣を1791年から1801年までの長期間にわたって務め、対仏強硬外交を主導した。1801年に小ピットが辞職した際には一緒に辞職したが、この下野時に小ピットと疎遠になり、ホイッグ党のチャールズ・ジェームズ・フォックスに接近、1806年にはフォックスたちとともに「挙国人材内閣(英語版)」を成立させ、その首相(在職:1806年2月11日 ? 1807年3月31日)となった。イギリス本国における奴隷貿易廃止を実現した。しかしフォックスの急死や、カトリック解放問題をめぐって国王ジョージ3世と対立を深めたことで辞職に追い込まれた。 1759年10月25日、後に首相を務める政治家ジョージ・グレンヴィル(1712年 ? 1770年11月)とその妻エリザベス
経歴
生い立ち
1770年から1776年までイートン・カレッジで教育を受けた後[2]、1776年12月14日にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学、1780年にB.A.の学位を修得した[3]。1780年4月6日にリンカーン法曹院に入学[3][4]、1782年まで在学したが、弁護士資格免許は取得しなかった[5]。
イートン・カレッジへの入学に前後して両親が死去、さらにオックスフォード大学在学中の1779年には後見人で伯父にあたる第2代テンプル伯爵リチャード・グレンヴィル=テンプルも死去したため、両親の末男であるグレンヴィルは兄ジョージからの援助に頼ることになった[5]。そのため、政界入り直後は兄と共同歩調をとることが多かったが、兄は1783年末にチャールズ・ジェームズ・フォックスの東インド法案を否決させるにあたり国王への影響力を濫用した[注釈 1]として批判され、官職辞任を余儀なくされた[5]。
リンカーン法曹院在学中にグースツリーズ(Goosetree's)という、新米議員や選挙出馬を検討している人物が集まるクラブに加入、そこで後に首相となる従兄の小ピットとも会ったが、2人は1782年末まではそれほど親しくなかったという[5]。 1782年2月にバッキンガム選挙区
政界入りし、小ピット内閣で閣僚歴任