ウィリアム・グリフィス
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ウィリアム・エリオット・グリフィス
(William Elliot Griffis)

誕生 (1843-09-17) 1843年9月17日
アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィア
死没 (1928-02-05) 1928年2月5日(84歳没)
アメリカ合衆国フロリダ
職業理科教師・牧師・著述家・日本学者・東洋学者
国籍 アメリカ合衆国
最終学歴ラトガース大学卒業
活動期間1872年(明治5年) - 1926年(昭和元年)
ジャンルノンフィクション
主題東洋学日本学伝記歴史御伽噺
代表作The Mikado's Empire(『ミカド』『明治日本体験記』)
デビュー作The New Japan Primer(1872年), The New Japan Pictorial Primer(1872年)
子供

リリー・アンナ(長女)スタントン・グリフィス(長男)、ジョン・グリフィス(次男)
影響を与えたもの

日下部太郎新渡戸稲造

公式サイトグリフィス・コレクション
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ウィリアム・エリオット・グリフィス(William Elliot Griffis, 1843年9月17日 - 1928年2月5日)は、アメリカ合衆国出身のお雇い外国人、理科教師、牧師、著述家、日本学者、東洋学者である。

明治時代初期に来日し、福井と東京で教鞭をとった。帰国後は日本の紹介につとめたほか、朝鮮についても紹介した。
生涯

1843年、アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアに、ジョン・メリバーナとアンナ・マリア・ヘスの4番目の子供として生まれる。オランダ改革派教会系の大学であるニュージャージー州ラトガース大学を卒業。

ラトガース大学で福井藩からの留学生であった日下部太郎と出会う。明治3年(1870年)末に日本に渡り、福井藩の藩校明新館で翌年3月7日から明治5年(1872年)1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室を設計したが、これは日本最初の米国式理科実験室であったらしい。当時のグリフィスの教え子の一人、佐々木忠次郎は、後に講義は英語で行われたため、生徒たちは岩淵龍太郎(佐倉藩出身)の通訳でようやく講義を理解できたと述べている[1]。また、グリフィスの食生活にもふれ、当時の福井ではパンが手に入らなかったため、餡抜きの饅頭を作り、その薄皮を剥ぎとって代用したとも書いている[2]

明治4年(1871年)7月、廃藩置県により契約者の福井藩が無くなった。明治5年(1872年)、フルベッキ由利公正らの要請により11ヶ月滞在した福井を離れて大学南校(東京大学の前身)に移り、明治7年(1874年)7月まで物理と化学、精神科学などを教えた。

明治8年(1875年)の帰国後は牧師となるが、米国社会に日本を紹介する文筆・講演活動を続けた。1876年にアメリカで刊行したThe Mikado's Empire(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)は、第一部が日本の通史、第二部が滞在記となっている。

日本滞在中に記した日記や書簡、収集した資料は、グリフィス・コレクションとしてラトガース大学アレクサンダー図書館に収蔵されている。日下部やグリフィスの縁で、ラトガース大学のあるニューブランズウィック市と福井市は1982年に姉妹都市提携を結んでいる。
年表明治期福井に建てられたグリフィス邸(左側)グリフィス(中央)と大学南校の学生たち

1843年(天保14年) アメリカ合衆国ペンシルベニア州フィラデルフィアで、父ジョン・メリバーナ(John Limeburner Griffis)と母アンナ・マリア・ヘス(Anna Maria Hess)の4番目の子供(姉2人・兄1人・弟2人・妹1人)として生まれる。

1859年(安政5年 - 安政6年) セントラル高校入学。父が事業失敗。

1860年(安政6年 - 万延元年) セントラル高校退学。宝石会社に勤める。

1863年(文久2年 - 文久3年) 南北戦争の志願兵となり、ゲティスバーグの戦いに参加[3]

1865年(元治元年 - 慶応元年) オランダ改革派教会系の大学であるニュージャージー州ラトガース大学に入学。同級生のエドワード・ウォーレン・クラークと親友となる。

1867年(慶応2年 - 慶応3年) 福井藩からの留学生日下部太郎がラトガース大学に入学。グリフィスからラテン語を学ぶ。

1869年(明治2年) ラトガース大学を卒業。ニューブラウンズウィック神学校に入学。

1870年5月13日(明治3年4月13日) 日下部太郎死去。

1870年(明治3年)12月29日 横浜到着[3]

1871年(明治4年) 駿府学問所の教員を探していた勝海舟に対し、親友のエドワード・ウォーレン・クラークを推薦する。

1871年(明治4年)1月2日 東京到着。2月16日まで東京に滞在。この間、大学南校(東京大学の前身)でも働いている[3]

1871年(明治4年)3月4日 福井到着。藩校明新館で3月7日から翌年1月20日まで理科(化学と物理)を教えた。

1871年(明治4年)7月14日 廃藩置県。これに伴い、藩校明新館は県に移管される[3]

1871年(明治4年)8月23日、24日 白山登山。外国人としては初めての白山登山であった[4][5]

1871年(明治4年)9月22日 グリフィス館完成。

1871年(明治4年)11月 化学所完成。これは彼が設計した天窓のついた理科室と大窓のある化学実験室。日本最初の米国式理科実験室であったらしい。

1871年(明治4年)12月1日 化学所で授業開始。

1872年(明治5年)1月1日 大学南校(東京大学の前身)と契約。

1872年(明治5年)1月17日 母アンナ死去。

1872年(明治5年) 福井より東京に移る。出発は1月22日、到着は2月2日。途中1月30日に静岡にいた親友のエドワード・ウォーレン・クラークを訪問している[6]

1872年(明治5年)8月7日 姉のマーガレット・クラーク・グリフィス(Margaret Clark Griffis)来日。第一大学区東京女学校で英語教師となる。最初の官立女学校校長となる。

1873年(明治6年)2月17日 グリフィス館焼失。

1873年(明治6年) 静岡学問所廃止に伴いエドワード・ウォーレン・クラークが東京開成学校に移る。グリフィスと一緒に生活した。

1874年(明治7年)7月18日 南校の契約終了。姉のマーガレットと供に帰国。

1875年(明治8年) ニューヨークユニオン神学校に入学。

1876年(明治9年) アメリカでThe Mikado's Empire(『ミカドの帝国』あるいは『皇国』と訳される)を出版。


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