ウィリアム・ガル
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Sir William Withey Gull, Bt準男爵ウィリアム・ウィジー・ガル
ウィリアム・ガル(1860年頃)
生誕 (1816-12-31) 1816年12月31日
イギリス イングランド エセックス州コルチェスター
死没1890年1月29日(1890-01-29)(73歳)
イギリス ロンドン ブルックストリート(英語版)74番地[1]
研究分野医師
研究機関ロンドン・ガイズ病院(英語版)
主な業績神経性無食欲症(anorexia nervosa)の命名
ガル=サットン症候群の発見
対麻痺粘液水腫の研究
配偶者Susan Ann Lacy (m. 1848)
プロジェクト:人物伝
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初代準男爵ウィリアム・ウィジー・ガル(英語: Sir William Withey Gull, 1st Baronet、1816年12月31日 - 1890年1月29日)は、イギリス医師である。上流階級の出身ではなかったが、医師としての地位を確立し、ガイズ病院(英語版)の院長、フラーリアン生理学教授(英語版)、ロンドン臨床医協会(英語版)会長など、様々な役職を務めた。1871年、腸チフスに罹患した王太子(後の国王エドワード7世)の治療に成功したガルは、準男爵に叙任され、ヴィクトリア女王の典医に任命された。

ガルは、粘液水腫ブライト病対麻痺神経性無食欲症の研究など、医学界に多大な貢献をした。

1970年代に生まれた、切り裂きジャックの事件にフリーメイソンイギリス王室が関わっているとする陰謀論の中には、ガルが切り裂きジャックの正体を知っていた、あるいはガル自身が切り裂きジャックだったと主張するものがある。事件当時ガルは71歳で体調を崩しており、ほとんどの学者はこの説を否定している。しかし、そのドラマチックな内容から、フィクション作品ではこの設定がよく使われている。ガルが切り裂きジャックとして描かれた例として、1996年のグラフィックノベルフロム・ヘル』などがある。
若年期

ガルは、1816年12月31日エセックス州コルチェスターで生まれた。父のジョン・ガルは、波止場や艀の管理人で、ウィリアムが生まれたときには38歳だった。ウィリアムは、ショーディッチのセント・レオナーズ教区にあるセント・オシス・ミルに係留されていた父の艀「ダブ」(The Dove)の中で生まれた。母エリザベス(旧姓チルバー(Chilver))は、ウィリアムを生んだとき40歳だった。ウィリアムのミドルネーム「ウィジー」は、名付け親であるキャプテン・ウィジーに由来する。キャプテン・ウィジーは父親の友人で、雇用主であり、地元で艀を所有していた[2]。ウィリアムは8人兄弟の末っ子で、そのうち2人は幼い頃に亡くなった。生き残った6人の兄弟は、男が3人(ジョン、ジョセフ、ウィリアム)、女が3人(エリザベス、メアリー、マリア)だった。

ウィリアムが4歳くらいのとき、一家はエセックス州ソープ=ル=ソケン(英語版)に引っ越した。父は1827年、ウィリアムが10歳のときにロンドンでコレラのために亡くなり、ソープ=ル=ソケンに埋葬された。夫の死後、母エリザベスは、わずかな収入で6人の子供を育てた。母エリザベスは人格者で、子供たちに"What is worth doing, is worth doing well"(仮にもやる値打ちのあることは、よくやる値打ちがある)ということわざを教えた。ウィリアムは、自分の本当の教育は母親から受けたとよく言っていた。母エリザベスは敬虔なキリスト教徒で、金曜日の夕食は必ず魚とライスプディングだった。四旬節には黒い服を着て、聖人の日を大切にしていた。

ウィリアムは幼い頃、姉たちと一緒に地元のデイ・スクールに通っていた。その後、同じ教区にある地元の聖職者が運営する別の学校に通った。15歳になるまで学校に家から通っていたが、15歳から2年間は寄宿舎に入った。ラテン語を学び始めたのもこの頃である。しかし、聖職者が教えることだけでは物足りず、17歳のときに通うのを止めた。

ウィリアムは、サセックス州ルイスにあるアボットという人物が運営する学校で教生(英語版)となった。校長やその家族と一緒に暮らし、ラテン語やギリシャ語を学び、それを生徒に教えた。このとき、植物学者・建築家のジョセフ・ウッズ(英語版)と知り合い、珍しい植物を探すことが生涯の趣味となった。ルイスの学校で2年間過ごした後、19歳になったウィリアムは、父と同じ海での仕事も含めて、別の仕事を考え始めた。

ウィリアムのことを気にかけてくれた実家の地元の牧師が、牧師館で古典などの勉強を再開することを提案した。ウィリアムはこれに同意し、1年間この生活を続けた。家にいるときは、姉たちと一緒に河口から海へ漕ぎ出し、漁師の様子を観察したり、浚渫船の網から野生生物の標本を集めたりした。ウィリアムは、手に入れた標本を、手に入る限りの書物を使って研究した。ここから生物学の研究に興味を持ち、後に医学の道へ進むことになる[3][4]
教育ガイズ病院の入口のエングレービング(1820年、ジェームズ・エルムズ(英語版)、ウィリアム・ウールノス(英語版)作)

この頃、地元の牧師の叔父で、ガイズ病院(英語版)の会計係であるベンジャミン・ハリソンがガルを紹介され、その能力に感銘を受けた。ハリソンはガルにガイズ病院に来るように誘い、1837年9月、21歳になる前の秋、ガルは家を出てガイズ病院で医学の勉強を始めた。本来であれば「見習い」として勤務を始めるところを、ガルはハリソンの後押しにより、病院内に私室を与えられ、年間50ポンドの手当が支給された。

ハリソンに励まされたガルは、このチャンスを最大限に生かそうと決意し、その年に病院内で行われる賞に全て挑戦し、その全てを獲得した。ガイズ病院での最初の1年間で、他の勉強と並行してギリシャ語、ラテン語、数学の教育を受け、1838年には、設立されたばかりのロンドン大学に入学した。1841年に医学の学士号(M.B.)を取得し、生理学比較解剖学内科学外科学で優等学位を取得した[3][4]
キャリア

1842年、ガルはガイズ病院でマテリア・メディカを教えることになり、ハリソンからキングストリートに小さな家を与えられ、年俸は100ポンドとなった。1843年に、自然哲学の講師に任命された。また、この時期、ガルはガイズ病院の医学講師のポストに就き、スタッフが不在の場合は病院内の患者の世話をした。同年、彼は精神病棟の医学監督に任命されたが、これらの症例が間もなく病院で治療されなくなり、病棟がこの用途から転換されたのは、彼の影響によるところが大きい。

この間、ガルは様々な職務に就き、医学的な経験を積んだ。ガルは人生の大半を病院内で過ごし、しばしば夜も病院内にいた。

1846年、ロンドン大学で医学博士号(M.D.)を取得した。また、ロンドン大学が授与する医学分野での当時の最高の栄誉だった金メダルを獲得した。博士号を取得するための試験中、ガルは緊張から来る発作に見舞われ、試験官からコメントを求められた症例について「何も知らない」と言って部屋を出ようとしたが、友人に説得されて戻った。その後書いた論文によって博士号と金メダルを授与された。

1846年から1856年まで、ガルはガイズ病院で生理学と比較解剖学の講師を務めた。

1847年、ガルは王立研究所のフラーリアン生理学教授(英語版)に選ばれ、2年間その職に就いた。その間、当時フラーリアン化学教授(英語版)だったマイケル・ファラデーと親交を深めた。1848年には、王立内科学会(Royal College of Physicians)のフェローに選出され、ガイズ病院の常駐医師となった。1869年に王立協会フェローに選出された。1871年から1883年まで一般医療評議会(英語版)の王室代表委員を務め、1886年からはロンドン大学代表となった[3][4]。1871年、ロンドン臨床医協会(英語版)会長に選ばれた[5]
結婚と家族

1848年5月18日、ガルはカーライルのJ・ダクレ・レイシー大佐の娘、スーザン・アン・レイシー(Susan Ann Lacy)と結婚した。その後すぐに、ガイズ病院内の私室からフィンズバリー・スクエア(英語版)8番地に引っ越した。

スーザンとの間には3人の子供がいた。キャロライン・キャメロン・ガル(Caroline Cameron Gull)は1851年にガイズ病院で生まれ、1929年に亡くなった。キャロラインは、準男爵ヘンリー・アクランド(英語版)の息子であるセオドア・ダイク・アクランド(英語版)と結婚した。2人の間には2人の子供がおり、1人は幼児期に亡くなったが、もう1人の息子のセオドア・アクランド(英語版)(1890-1960)はノリッチ・スクール(英語版)の校長となった[6]

キャメロン・ガル(Cameron Gull)は1858年頃、バークシャー州パンボーン(英語版)のバックホールドで生まれ、幼児期に亡くなった。


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