ウィリアム・カリー_(軍人)
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この項目では、軍人のウィリアム・カリー (軍人)について説明しています。第12代上智大学長については「ウィリアム・カリー」をご覧ください。

ウィリアム・ロウズ・カリー
William Laws Calley
ウィリアム・カリーのマグショット(1969年)
渾名「ラスティ」(Rusty)
生誕 (1943-06-08) 1943年6月8日(80歳)
アメリカ合衆国
フロリダ州マイアミ
所属組織 アメリカ陸軍
軍歴1966年 - 1974年
最終階級中尉[1]
戦闘ベトナム戦争
ソンミ村虐殺事件
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ウィリアム・ロウズ・カリー[1](William Laws Calley、1943年6月8日 - )は、アメリカ陸軍軍人ベトナム戦争最中の1968年3月16日に起きたソンミ村虐殺事件で、虐殺を直接命令した将校として唯一有罪判決を受けた[2]
若年期

第二次世界大戦に従軍したアメリカ海軍退役軍人である父の元、フロリダ州マイアミに生まれ、やや赤みを帯びた茶髪だった事から「ラスティ(錆付き)」のあだ名で呼ばれていた。カリーはマイアミでマイアミエジソン高校を卒業し、1963年にパームビーチ短期大学に入学したものの、Cが2つ、Dが1つ、Fが4つという不十分な評価を受け、1964年に退学した[3]

その後、ボーイ、皿洗い、セールスマン、保険被害査定人、列車の車掌など、さまざまな職業を転々とした[4]。定職に付かぬまま1966年を迎えた頃、選抜徴兵局から彼の医療状態を要請する通知を受け取った。これを受けてマイアミに戻る最中、ニューメキシコアルバカーキで車が故障してしまう。やむを得ず、カリーは現地の徴募軍曹に報告し、1966年7月26日にアルバカーキでアメリカ陸軍に入隊した[4]
軍歴

カリーは、ワシントン州のフォート・ルイス駐屯地で中隊事務員として8週間の高等訓練を受け、ジョージア州フォート・ベニング駐屯地で、9週間の基本的な戦闘訓練を経験した。彼はまた、AFQT(Armed Forces Qualification Test)で高得点を記録し、米陸軍の士官候補生学校(Officer Candidate School,OCS)に入学する。カリーは、1967年3月中旬からフォート・ベニング駐屯地で16週間の下級将校訓練に参加した。1967年9月7日、彼はOCSを51番の席次で卒業し、歩兵少尉に任命された[4]

カリーは第11歩兵旅団第20歩兵連隊第1大隊C中隊に配属され[1]ハワイのショフィールド・バラック演習場にて、ベトナム共和国(南ベトナム)への派遣に備えて訓練を開始した。ベトナム到着後、第11歩兵旅団は第23「アメリカル」歩兵師団に合流した。

カリーは小隊長としての適性が欠けていたと言われているが、彼に関する将校評価報告では、彼について「平均」[3] としか記していなかった。カリーの小隊に所属したある兵士は、「カリーは常識が無く、コンパスも読めなかった」と軍の調査官に証言した [5] 他、別の何人かの兵士は彼を本気で「フラギング」[注 1]しようと考えるほど嫌っていたと証言している[2]。ただし、このような否定的な評価が急増したのはソンミ村事件の調査が進んだ後である。
虐殺事件

ソンミ村ミライ集落近くの104人のベトナムの一般人に対する計画的殺人など6つの容疑について、カリーは1969年9月5日起訴された。

裁判では1968年3月16日、500人もの村民(大部分は女性、子供、幼児、老人)がアメリカ陸軍の兵士により組織的に虐殺されたとされ、もしも有罪判決が下れば、カリーには死刑を科せられる可能性もあった。

1970年11月17日に始まった裁判では、カリーがアメリカ陸軍の交戦規定を無視して、部下の誰もが敵の攻撃下になかったにもかかわらず、故意に非武装のベトナムの一般人を殺害するように命令したことについて軍法が論点となった。

証言から、第23「アメリカル」歩兵師団第1大隊C中隊第1小隊の兵士に集落住民の殺傷を命令したことが明らかになった。事件を公表する際、オーブリー・ダニエルとジョン・パーティンという2人の軍検察官からの関与があり、多くの兵士がカリーに不利な証言を拒むことになった。何人かは、自己負罪に対して黙秘権を得た事で、証人台で質問に答えることを拒否した。

しかし、リードW.ケネディ裁判長によって法廷侮辱罪の罪で投獄されていたカリーの部下、ポール・メドロは渋々ながら証言することに同意した。メドロは事件当日、2?3ダースほどのミライ集落の住民を監視していたが、カリーが彼に接近し、全ての住民を撃つように命令してきたと証言した。メドロが命令に戸惑いを見せると、カリーは20フィート(6m)かそれ以上後ろに下がって部下と共に住民に発砲し、またメドロもそれに加わった。

同様に、当初証言を拒んでいたデニス・コンティという兵士は、カリーがまず住民へ発砲を開始し、C中隊員である105人の兵士がそれに続いたのだと証言した。さらに別の目撃者であるレナード・ゴンザレス、カリーの部下が村民の男女数人を一箇所にまとめ、服を脱ぐように命令したのを目撃したとして、村民が命令を拒んだ為、その兵士はM79 グレネードランチャーを発砲して全員を殺傷したとしている。

村民の死亡は空爆あるいはヘリコプターの攻撃によるものだとしたカリー側の主張はいくらかの目撃者によって否定された。次にカリーは直属の上官であるアーネスト・メディナ大尉の命令に従ったのだと主張した。実際にこの命令があったかどうかは未だに議論が分かれているが、メディナ自身は1971年8月に別の裁判により事件に関する全ての告訴を免除されている。

被告側弁護士ジョージ・ラティマーは、前日にメディナが部隊を村へと進め、全てのベトコンを殺せと命じたと主張した。C中隊員の兵士21人もこのカリー側の主張を裏付ける証言を行った。しかし、メディナは自分がそのような命令を発した事を公然と否定し、命令についてカリー側が「全てを殺せ」と解釈する主張をすると、メディナはあくまで「全ての敵を殺せ」と命じたに過ぎないと反論した。メディナの証言について、カリーは以下のように述べた。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}「私はそこに向かい、敵を撃滅せよと命令を受けた。それは、その日の私の仕事だった。それは、私に与えられた任務だった。私は彼らが男であるか、女であるか、または子供であるかを考慮しなかった。彼らは全て同じもの、すなわち敵として分類されており、その分類に従い対処した。私は命令されたからこそ行動したのである。私は私に与えられた、そして私が正しいと感じた命令を遂行したのだ」—ウィリアム・カリー

79時間の審議を経て、6人の将校陪審員(内5人はベトナム従軍経験者)は、1971年3月29日の「22人の兵士による住民の計画的殺人」に関して有罪判決を下した。同年3月31日、カリーはフォート・レブンワース終身刑を宣告された[6]

ソンミ村事件及びその隠蔽に関与したとして起訴された26人の将校及び兵卒のうち、有罪判決を受けたのはカリーだけであった。

アメリカの多くの州では、判決に対する反対が盛り上がった。

ジミー・カータージョージア州知事は「アメリカ戦士の日」を制定し、一週間カリーに対する支援を努力するようにジョージア州民に要請した[7]


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