ウィリアム・ウォレス
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「ウィリアム・ウォレス」はこの項目へ転送されています。その他の用法については「ウィリアム・ウォレス (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ウィリアム・ウォレス
William Wallace
アバディーンにあるウォレスの像
生誕1270年
スコットランド王国レンフルーシャー・エルダズリー(英語版)
死没1305年8月23日
イングランド王国ロンドンスミスフィールド
軍歴1297年 - 1305年
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サー・ウィリアム・ウォレス(英語: Sir William Wallace、1270年頃 - 1305年8月23日)は、スコットランドの愛国者、騎士、軍事指導者。

イングランドエドワード1世の過酷なスコットランド支配に対して、スコットランド民衆の国民感情を高めて抵抗運動を行い、1297年スターリング・ブリッジの戦いでイングランド軍に勝利をおさめた。この戦功でスコットランド守護官(英語版)に任じられるも、1298年フォルカークの戦いでイングランド軍に敗れたため、職を辞した。その後もエドワードの支配への抵抗運動を継続したが、1305年にイングランド軍に捕らえられ、大逆罪で有罪となり、残虐刑で処刑された。しかし彼の刑死によりスコットランドの国民感情は鼓舞され、ついにはエドワードのスコットランド支配を崩壊させるに至った[1]
生涯
出自・前半生など

ウォレスの前半生についてはほぼ不明だが[2]レンフルーシャーのエルダズリー(英語版)の地主マルコム・ウォレスの子との伝承がある[3]。しかし後述する「リューベック文書」の印璽から見られるウォレスの父親の名前は「アラン」である[4]

ウィリアム・ウォレスの伝承の多くは、15世紀後半の吟遊詩人ブラインド・ハリー(英語版)の詩から拾い集められた物であり、その詩はウォレスの死後およそ200年後に書かれた物であるため、確証はできない物が多い[5]

「ウォレス」というのは「ウェルシュ」がなまったものだが、スコットランド歴史家ナイジェル・トランター(英語版)は、これはウェールズ人であることを意味せず、北方ゲール系ケルト人でなく、南部キムルー・ストラスクライド系ケルト人だったことを意味していると主張している[3]
抵抗運動の始まり

記録に出てくるなかでは、1296年8月にパースで「William le Waleys」なる盗賊が現れたとあるが、これがウィリアムかどうかは確認されていない[6]

ウィリアム・ウォレスの名が歴史上に出てくる確かな年代は1297年5月で、ラナークのハイ・シェリフ(英語版)を務めるイングランド人ウィリアム・ヘッセルリグ(William Heselrig)を殺害した事件がそれである[7]。この殺害について、ブラインド・ハリーが伝える伝承ではウォレスの愛人マリオン・ブレイドフュートがヘッセルリグの息子を振って殺され、その復讐とされるが[7]、実際にはイングランド式の統治を推し進めていたヘッセルリグのアサイズ(巡回裁判)に反発したスコットランド人の一団がヘッセルリグの殺害を計画・実行し、この一団にウィリアムが関わっていたものと見られる[6]

ウォレスは、イングランドの過酷な統治に反発するスコットランド下級貴族・中間層・下層民の間で急速に支持を広げた[2][8]。分散的だったスコットランド人の抵抗運動はウォレスの指導下にナショナルなゲリラ的抵抗の形をもって統一されていった[8]。一方スコットランド大貴族は親イングランド的だったうえ、ウォレスを身分の低い者と軽蔑していたので、積極的な協力はしなかった[2][9]
スターリング・ブリッジの戦いスターリング・ブリッジの戦いを描いた絵画

スコットランド北部で抵抗運動を行うアンドルー・モレー(英語版)の軍と合流し、1297年9月11日にはスターリング・ブリッジにおいて、スコットランド総督でイングランド貴族の第6代サリー伯爵ジョン・ド・ワーレン率いるイングランド軍と戦った(スターリング・ブリッジの戦い[8]

兵力はイングランド軍の方が優勢であり[2]、またイングランド軍は騎兵隊やウェールズ弓隊を擁していた[8]。しかしウォレスはフォース川の架橋地点とその先の湿地帯が一本道になっているという地の利を生かしてイングランド軍の騎兵隊の機動力を奪い、勝利を収めることに成功した[9]

イングランド王エドワード1世が前月8月からフランス出兵でイングランドを不在にしており、直接指揮をとっていなかったとはいえ、この勝利はスコットランド人の自信を大いに高めた[9]
スコットランド守護官

スターリング・ブリッジの戦い後、セルカーク(英語版)における会議で[10]、モレーとともにスコットランド守護官(英語版)に任じられた[11]。1296年にスコットランド王ジョン・ベイリャルがイングランド王エドワード1世に敗れて退位のうえイングランドに連行されて以来、スコットランドは王位が不在となっており、スコットランド王権はエドワード1世が接収していた[12]。ウォレスのスコットランド守護官への就任はそれを認めず、ロンドン塔で幽閉されているジョン・ベイリャルを真のスコットランド王に見立てて、ジョン王のスコットランド王国を守護するという立場を示すものだった[2]

またこれ以降ウォレスは「サー・ウィリアム・ウォレス」と呼ばれるようになっており、守護官に任じられると同時に勲爵位が与えられたと見られる[13]。誰がウォレスに勲爵位を与えたかは判然としない。理論上では騎士であればだれでも別の騎士を任命することは可能だったが[14]、イングランドの年代記には「逆賊がスコットランドの大伯爵の手で騎士に叙された」と記されている[10]。この記述からナイジェル・トランターはキャリック伯爵ロバート・ブルース(後のスコットランド王ロバート1世)がウォレスに勲爵位を与えたと主張している。当時の12人のスコットランド伯爵の中で、ある者は未成年、ある者はイングランド側、ある者は闘争から遠く離れて生きていたなどの消去法によって出された結論である。ただ新たなる文書による裏付けができない限り、これも確定することはできない[15][注釈 1]

守護官となって実質的にスコットランドの国政を任されたウォレスはスコットランドのかつての交易・外交関係を取り戻すべく、ヨーロッパと接触を図ったと見られ、1297年10月にはドイツリューベックハンブルクに宛てて「リューベックとハンブルク、2つの町の商人は今やスコットランド王国の全ての地域に自由に出入りできる。その自由は、神の恩顧によって、戦争によって、イングランド人の権限から取り戻されたものである」という内容のラテン語の手紙をモレーとの共同署名で送っている[16]。この文書は「リューベック文書(The Lubeck letter)」と呼ばれるが、第二次世界大戦末にソ連軍が東側へ持っていたために行方不明となり、大戦中のリューベック空襲(ドイツ語版)で焼失したと考えられていたが、1970年代にソ連の文書館で発見され、1990年に交渉の結果リューベック市に返還された[17]。この文書は印璽からウォレスの父親の名前は「アラン」だったと伝えている[4]

ウォレス軍は勢いに乗ってイングランド北部ノーサンバーランドカンバーランドに進攻した[8]。しかしモレーはスターリング・ブリッジの戦いで負傷していたため同道しなかった(彼は負傷が原因で1297年終わりごろに死去している)[11]

1298年3月29日付けでウォレスとスコットランド議会の名義でスコットランド軍世襲の旗手アレクサンダー・ル・スクリムジャー(英語版)に書簡が送られているのが確認できる[18][19]
フォルカークの戦い

ウォレスの破竹の勢いも長くは続かなかった。彼は貴族階級から軽蔑され続け、またベイリオル家の名のもとで戦ったため、ブルース家から支持を得られなかった[20]。またフランスにいたエドワード1世は、ウォレス軍の勝利の報告を受けて、1298年1月に急遽フランス王フィリップ4世と講和し、イングランドに舞い戻ってきた[20]

エドワード1世は破壊的な報復を開始し、ウォレスはゲリラ戦でこれに抵抗したが、徐々に追い詰められていき、1298年7月22日にウォレス軍はエドワード1世率いるイングランド軍とフォルカークでの野戦を余儀なくされた(フォルカークの戦い[21]。ウォレス軍は数に勝るイングランド軍を相手によく奮戦したが、戦闘中、バデノッホ卿(英語版)ジョン・カミン率いる主として貴族から成る騎兵隊が一戦も交えずにウォレスを見捨てて撤退したため、ウォレスは騎兵無しで戦うことになり、決戦に持ち込めないまま、撤退を余儀なくされた[2][22][23]
フランスやローマで交渉

この戦いで多くの兵を失ったため、ウォレスは1298年7月にトーフィカンにおいて開いたスコットランド議会で、責任を取る形で「スコットランドの守護官」の職を辞した[2][24]。完全にはウォレスを支持していなかった貴族たちに引きずり降ろされたのか、嫌気がさして辞めたのは不明である[24]。ウォレスの退任後はブルースとジョン・コミンが同職に就任した[25]

この後の1298年から1303年にかけてのウォレスの動向はよく分かっていないが、フランスローマを訪問してエドワード1世への抵抗運動の援助を求める交渉にあたったことはいくつかの資料から判明している[26]。ローマへはセント・アンドリューズ司教(英語版)ウィリアム・ド・ランバートン(英語版)と共に行き、ローマ教皇ボニファティウス8世はランバートンの訴えを聞いて、1299年にイングランド軍のスコットランド侵攻を批判し「スコットランドはローマ教皇の権威の支配下にある」「スコットランドとイングランド間のいかなる論争も、ローマ教皇自身によってしか修正されることはない」とする宣言を出すとともに、エドワード1世にジョン・ベイリャルの釈放とその身柄をローマ教皇の権威に引き渡すことを命じた[27]


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