閣下
(英語版)第3代準男爵(英語版)サー・ウィリアム・ウィンダム(英語: Sir William Wyndham, 3rd Baronet of Orchard Wyndham、1688年頃 - 1740年6月17日[1])は、イギリスのトーリー党政治家。ステュアート朝最後の君主であるアン女王の治世に戦時大臣(1712年 - 1713年)、財務大臣(1713年 - 1714年)を歴任。ハノーヴァー朝の継承に強く反対するジャコバイトの一員であり、ジョージ1世の治世(1714年 - 1727年)からジョージ2世の治世(1727年 - 1760年)初期まで庶民院の野党指導者を務めた。
ウィンダムの1人目の妻は第6代サマセット公爵チャールズ・シーモアの次女レディ(英語版)・キャサリン・シーモア(Catherine Seymour)であり、2人の子供はすでに断絶したパーシー家(英語版)のノーサンバーランド伯爵が維持していたカンバーランドのイグリモント城(英語版)とサセックスのペットワース・ハウス(英語版)といった多数の遺産の半分を継承する権利を有した。この複雑な継承により、長男のチャールズ(英語版)は第2代イグリモント伯爵(英語版)になった。次男も伯爵に叙され、娘のエリザベスは首相ジョージ・グレンヴィルの妻で首相ウィリアム・グレンヴィルの母になった。
オーカード・ウィンダム近くのウォッチェット(英語版)港を建設したという業績を残している[2]。 第2代準男爵
目次
1 生涯
1.1 初期の経歴
1.2 アン女王の治世
1.3 ジャコバイトの指導者
1.4 偽名ガンダム
1.5 捨子養育院
1.6 死去
2 家族
3 肖像画
4 脚注
5 出典
生涯
初期の経歴
ウィンダムはイートン・カレッジとオックスフォード大学クライスト・チャーチで教育を受けた。グランドツアーの最中、ローマでとある占い師に出会い、「白い馬に気をつけろ」と警告された。後にイングランドでも同様の警告を受けたが、後にその白い馬がジョージ1世の使用したイングランド王室紋章の第4クォーターにあるハノーファー君主の紋章に描かれているザクセンの馬(英語版)を指すと判明した。彼はジョージ1世に反対して、多くのいざこざに巻き込まれてしまうのであった[2]。 1710年に庶民院に入り、1712年にトーリー党内閣の戦時大臣に、1713年に財務大臣になった。急進派のトーリー党指導者ボリングブルック子爵と親しく、アン女王の死後にジャコバイトのステュアート朝復帰陰謀に関与、それが失敗すると罷免され[3]、1714年に短期間投獄された。 ジョージ1世の治世が始まると、ボリングブルック子爵はフランスに逃亡して老僭王ジェームズ・フランシス・エドワード・ステュアートの宮廷と合流、ウィンダムはイングランドにおけるジャコバイトの指導者の座についた。ジョージ1世を追い落とす反乱が1715年夏に計画され、ウィンダムは7月に老僭王にメッセージを送り、「1日でも無駄にしない」よう促した[4]。しかし、計画は露見してしまい、ウィンダムの役割が内閣に示された。このときの閣議にはジョージ1世とウィンダムの義父である第6代サマセット公爵も出席しており、サマセット公爵はホイッグ党政府の一員でハノーヴァー朝を強く支持したが、同時にウィンダムを逮捕から守りたかったため、「彼の責任を持つ」ことを提案した。多くの閣僚はサマセット公爵のような身分の高い人物への攻撃を憚って同意しかけたが、北部担当国務大臣のタウンゼンド子爵のみは政府が決心を示すべきと考えて、ウィンダムの逮捕を動議した。閣僚たちは返事を逡巡して、10分間の沈黙が続いた。やがて2、3人が賛成に回り、ジョージ1世は逮捕を勅許した。ジョージ1世は私室に戻るとき、タウンゼンドの手を握って、「あなたは今日、余に大きく貢献した」と述べた[5]。 ジェームズ・スタンホープはジョージ1世からのメッセージを庶民院に届けた。ジョージ1世は庶民院議員6名を「王国への侵攻を支持する陰謀への加担」の疑いで逮捕することへの許可を所望したという[6]。
アン女王の治世
ジャコバイトの指導者