ウィリアム・インブリー
William Imbrie
ウィリアム・インブリーの肖像写真
生誕 (1845-01-01) 1845年1月1日
アメリカ合衆国
ニュージャージー州ラーウェイ
ウィリアム・インブリー(英語: William Imbrie , 1845年1月1日 - 1928年8月4日)は、1875年(明治8年)に日本を訪れて以後、40年以上もの長きにわたりキリスト教の布教活動を行ったアメリカ合衆国長老教会の宣教師である。歴代訪日宣教師の中でも顕著な業績を残しているが、彼の業績について言及された文献は極めて少ない。そのために「インブリー事件」の被害者として最もよく知られる。
生い立ち(英語版)第一長老教会の牧師館で父のチャールズ・キッセルマン・インブリー(1814?1891)と母のエリザベス・ミラー・インブリー(1815?1891)の長男として生まれた[1]。両親ともにスコットランド出身の祖先を持つスコットランド系アメリカ人(英語版)(父方の祖母の祖先はイングランド出身)である[2]。姉1人と弟2人がいたが、末弟のジョンは生後間もなく亡くなった[3]。のちに、姉のレイチェル(1842?1907)は長老教会牧師夫人となり、上の弟のチャールズ(1848?1899)は実業家となった[4]。7歳になって間もなく、父のチャールズは同じニュージャージー州のジャージーシティ第一長老教会に転任となり、一家はマンハッタン島対岸の市街地区へ転居した[5]。チャールズは定年となる1888年まで40年近く第一長老教会の牧師を務めた[6]。
姉や弟とともにチャールズから初等教育を受け、10歳になるとマンハッタン島のグリニッジ・ヴィレッジにあるクッケンボス・スクールに通い始めた[5]。1858年にチャールズの教会で信仰告白を体験した[5]。クッケンボス・スクールを卒業後、同じマンハッタン島にある監督教会(アメリカ聖公会系)のコロンビア大学に入学した[5]。コロンビア大学で2年間過ごした後、1863年9月にプリンストン大学の1865年クラスに編入し、寄宿舎生活を始めた[5]。南北戦争が終結した2か月後の1865年6月にプリンストン大学を最優秀で卒業した[7]。
実業界から教職者へプリンストン神学校のアルバムより
プリンストン大学を卒業した後はウォール街の証券会社に就職し、次いでペンシルベニア鉄道会社に転職したが、長続きせずにどちらも半年で辞めた[8]。父と同様に教職者を志すことを決意し、1年間入学試験の準備を行った後、1867年秋にプリンストン神学校に入学した[8]。神学校の同級生にはいとこのエドワード・ローゼイ・ミラー、のちに在日ミッションの同僚となるオリバー・マクリーン・グリーンらがいた[9]。