ウィリアム・アイリッシュ
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .ambox{border:1px solid #a2a9b1;border-left:10px solid #36c;background-color:#fbfbfb;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .ambox+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+link+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+style+.ambox,.mw-parser-output .ambox+.mw-empty-elt+link+link+.ambox{margin-top:-1px}html body.mediawiki .mw-parser-output .ambox.mbox-small-left{margin:4px 1em 4px 0;overflow:hidden;width:238px;border-collapse:collapse;font-size:88%;line-height:1.25em}.mw-parser-output .ambox-speedy{border-left:10px solid #b32424;background-color:#fee7e6}.mw-parser-output .ambox-delete{border-left:10px solid #b32424}.mw-parser-output .ambox-content{border-left:10px solid #f28500}.mw-parser-output .ambox-style{border-left:10px solid #fc3}.mw-parser-output .ambox-move{border-left:10px solid #9932cc}.mw-parser-output .ambox-protection{border-left:10px solid #a2a9b1}.mw-parser-output .ambox .mbox-text{border:none;padding:0.25em 0.5em;width:100%;font-size:90%}.mw-parser-output .ambox .mbox-image{border:none;padding:2px 0 2px 0.5em;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-imageright{border:none;padding:2px 0.5em 2px 0;text-align:center}.mw-parser-output .ambox .mbox-empty-cell{border:none;padding:0;width:1px}.mw-parser-output .ambox .mbox-image-div{width:52px}html.client-js body.skin-minerva .mw-parser-output .mbox-text-span{margin-left:23px!important}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .ambox{margin:0 10%}}

この記事は検証可能参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方
出典検索?: "ウィリアム・アイリッシュ" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2019年3月)
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学ウィリアム・アイリッシュ

ウィリアム・アイリッシュ(William Irish, 1903年12月4日 - 1968年9月25日)は、アメリカ合衆国推理作家。本名はコーネル・ジョージ・ホプリー=ウールリッチ(Cornell George Hopley-Woolrich)。主にコーネル・ウールリッチという名前で創作活動を行っていたが、一部の作品ではウィリアム・アイリッシュやジョージ・ホプリーという筆名を使用していた。日本ではアイリッシュ名義の『幻の女』が有名であるためか、ウィリアム・アイリッシュと呼ばれることが多い。
経歴

ニューヨークで生まれた。少年時代に母親のクレアと土木技師の父親が離婚し、しばらく父親とともにメキシコで暮らしていた。1921年にニューヨーク市の母親のもとに身を寄せ、コロンビア大学に入学し、ジャーナリズムを専攻したが、在学中から小説を書き始め、大学を中退する。

1926年に最初の小説「Cover Charge」を出版した。当初はF・スコット・フィッツジェラルドの影響を強く受けたジャズ・エイジ作家だった。

1931年には「Cover Charge」を映画化したプロデューサー、スチュアート・ブラックトンの娘バイオレット・ヴァージニア・ブラックトンと結婚するが、この結婚は3ヶ月しか続かなかった。妻が彼の日記に、同性愛者との浮気についての記述を見つけたのがきっかけだった ⇒[1]。彼女は、彼が夜遅くになると、同性との出会いとアバンチュールを求めて出かけていること、そのために船員服を持っていたことまで知ってしまったのである。

1933年、二人の婚姻は法的にも解消された。ブロードウェー西113番街の「マルセーユ・ホテル」で母親と同居を始めた。この後35年間に渡り、彼は住居というものを持たず、母と共にホテルを転々とする暮らしを続ける。

1934年から推理小説の短編をパルプマガジン向けに書き始め、しだいにその数を増やしていった。1940年の『黒衣の花嫁』から長編も書くようになり、サスペンス小説作家として地位を高めていった。1942年に「ダイム探偵マガジン」誌に、ウィリアム・アイリッシュ名義で「それは殺人でなければならない(It Had to Be Murder)」を発表。以後この名前で知られるようになる。

1940年代後半から母が重病となり、出版される小説はしだいに減っていった。1957年10月6日には母が死に、元々厭人的であった性格がさらにひどくなった。母親の死後、今度は伯母と同居する形で「フランコニア・ホテル」に移った。これは母親と暮らしていたホテルよりも粗末なものであった。

最晩年、彼はひとり、豪華なホテルに住まいを移すが、自分の体をいたわることのない生活はそのままであった。絶えず喫煙し、酒量も増え、糖尿病アルコール中毒に苦しめられた。また、足に合わない靴を延々と履き続けたことから壊疽が起こるも、医者に見せようともせず、結局医者に見せたときには既に手遅れで、足を切断する羽目となった。

1968年に死亡し、ニューヨークのハーツデールのファーンクリフ墓地に埋葬された。遺族はおらず、葬儀への参列者は5人だけだった。また死亡時、彼の体重は89ポンド(40kg)しかなかった。人気作家であった彼の口座には、死亡時、百万ドルの残高があった。

彼は、在籍していたコロンビア大学にジャーナリスト育成の奨学金として85万ドルを寄贈している。
作風

追われる者の不安や孤独を描くことを得意としており、その作風はサスペンス派に分類することができる。哀愁味が溢れる美しい文体から、“サスペンスの詩人”と呼ばれている。『幻の女』の冒頭の一文はとりわけ有名でしばしば引用され、作家の小泉喜美子は「どれだけの人が衝撃を受けただろう」と書いている。

ストーリー設定としては、期限内に事件を解決しなければ死んでしまうというタイム・リミットを設定したものや、自分は無実なのに誰も自分の言うことを信じてくれないといった状況を描いたものが多い。論理的な推理を中心に据えた本格推理とは一線を画する。

日本の吉原を舞台にした「ヨシワラ殺人事件』(The Hunted)という短編がある。「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリ」調の奇天烈な描写とともに、男尊女卑文化や日本の刑事のがさつさが強調された内容である。

長編の代表作である1942年の『幻の女』は、江戸川乱歩の「新しい探偵小説であり、すぐに訳すべきである」という評価によって日本で圧倒的な知名度を持っている[1]。短編の代表作である1942年の『裏窓』は、アルフレッド・ヒッチコック監督により映画化された。

アイリッシュ(ウールリッチ)作品の殆どはノンシリーズのそれだけで完結する作品だが、シリーズとして「聖アンセルムホテル」を舞台にホテル専属のストライカー探偵が自殺または殺人の謎に挑む中編(アンセルム913号室)、数十年にわたりホテルに宿泊した人々の運命を綴る連作(アンセルム923号室)の作品群がある[2]
主な作品
普通小説

1926年 Cover Charge - 著者の処女長編。

1927年 Children of the Ritz

1929年 タイムズ・スクェア (Times Square)

1930年 A Young Man's Heart

1931年 The Time of Her Life

1932年 マンハッタン・ラブソング (Manhattan Love Song)
[3]

推理小説(長編)

1940年
黒衣の花嫁 (The Bride Wore Black) - 最初のミステリ長編。1968年に映画化。

1941年 黒いカーテン (The Black Curtain)

1942年 黒いアリバイ (The Black Alibi)

1942年 幻の女 (Phantom Lady)(ウィリアム・アイリッシュ名義)

1943年 黒い天使 (The Black Angel)

1944年 恐怖の冥路 (The Black Path of Fear)

1944年 暁の死線 (Deadline at Dawn)(ウィリアム・アイリッシュ名義)

1945年 夜は千の目をもつ (Night Has a Thousand Eyes)(ジョージ・ホプリー名義)

1947年 暗闇へのワルツ (Waltz into Darkness)(ウィリアム・アイリッシュ名義)

1948年 死者との結婚 (I Married a Dead Man)(ウィリアム・アイリッシュ名義)

1948年 喪服のランデヴー (Rendezvous in Black)

1950年 野性の花嫁 (Savage Bride)

1950年 恐普B(Fright)(ジョージ・ホプリー名義)

1951年 死刑執行人のセレナーデ (Strangler's Serenade)(ウィリアム・アイリッシュ名義)

1959年 死はわが踊り手 (Death is My Dancing Partner)

1960年 運命の宝石 (The Doom Stone)

1987年 夜の闇の中へ (Into the Night)(遺稿をローレンス・ブロックが補綴したもの)

連作

1958年 聖アンセルム923号室 (Hotel Room)

短編集

1943年 I Wouldn't Be in Your Shoes - アイリッシュ名義の最初の短編集。

1956年 悪夢 (Nightmare)

1981年 今夜の私は危険よ (The Fantastic Stories of Cornel Woolrich)



魅せられた死

今夜の私は危険よ

コブラの接吻

ジェーン・ブラウンの死体

だれかの衣装─だれかの人生



邦訳出版

ハヤカワ・ポケット・ミステリ (シリーズ番号/名義/訳者)

1953年 黒衣の花嫁(103/コーネル・ウールリッチ/黒沼健)

1954年 暁の死線(123/ウィリアム・アイリッシュ/砧一郎)

1955年 幻の女(183/ウィリアム・アイリッシュ/黒沼健)

1975年 改訂版(稲葉明雄)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef