ウィッティア_(カリフォルニア州)
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ウィッティア

Whittier
ウィッティアにあるピオ・ピコの家
ロサンゼルス郡内の位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯33度57分56秒 西経118度1分28秒 / 北緯33.96556度 西経118.02444度 / 33.96556; -118.02444座標: 北緯33度57分56秒 西経118度1分28秒 / 北緯33.96556度 西経118.02444度 / 33.96556; -118.02444
アメリカ合衆国
 カリフォルニア州
ロサンゼルス郡
政府
 ? 市長オーウェン・ニューカマー
面積[1]
 ? 合計14.7 mi2 (37 km2)
 ? 陸地14.7 mi2 (37 km2)
 ? 水域0.016 mi2 (0.041 km2)  0.11%
標高367 ft (112 m)
人口(2020年)[2]
 ? 合計87,306人
 ? 密度5,900人/mi2 (2,400人/km2)
族称Whittierite
等時帯UTC-8 (太平洋標準時)
 ? 夏時間UTC-7 (太平洋夏時間)
ZIPコード90601-90606
市外局番562
FIPS code06-85292
GNIS feature ID1652813
ウェブサイト ⇒http://www.cityofwhittier.org/

ウィッティア(: Whittier)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス郡の都市。ロサンゼルス市から南東に19kmにある。人口は8万7306人(2020年)。近くにあるモンテベロと同様にゲイトウェイ都市の一部になっている。町の設立は1887年、法人化は1898年2月であり、1955年にチャーター市になった[3]。市名は詩人のジョン・グリーンリーフ・ウィッティアから採られており、市内にはウィッティア・カレッジがある。
歴史

ウィッティアのルーツはスペイン軍人マヌエル・ニエトまで遡ることができる。1784年、ニエトの兵役任務に対する報償と、カリフォルニア開拓の奨励のために、スペインから広さ30万エーカー (1,200 km2) のランチョ・ロス・ニエトスが払い下げられた[3]。その土地はサンガブリエル伝道所との論争の結果として、1790年に減らされた。それでも領地は167,000エーカー (680 km2) あり、ウィッティア北にある丘陵部から、フラートン、ブレア、南の太平洋まで広がり、西はロサンゼルス川から東はサンタアナ川まであった。ニエトはウィッティア近くに家族の牧場を設立し、牛や馬を購入し、またトウモロコシ畑を造った。1804年にニエトが死んだとき、その子供達が資産を相続した。

米墨戦争のとき、町の大半は牧場主かつメキシコ領カリフォルニア総督のピオ・ピコが所有していた[3]。ピオ・ピコはウィッティアのサンガブリエル川沿いに大農場を建設しており、それが今日のピオ・ピコ州立歴史公園となっている[3]。戦後、ドイツ人移民ジェイコブ・F・ガーケンスが、ホームステッド法の下で234ドルをアメリカ合衆国政府に払って160エーカー (0.6 km2) の土地を取得し、丸太小屋を立てた。これが現在ジョナサン・ベイリー邸と呼ばれている。ガーケンスは後にロサンゼルス市警察の初代署長になった。ガーケンスの土地はその後数代所有者が変わった後で、クエーカー教徒集団が購入し、クェーカーの町を造るために広さを1,259エーカー (5 km2) まで拡大した。この地域は間もなく柑橘類の栽培で知られるようになり、「クエーカー印」の果物が国内全土に出荷された。後には胡桃の木も植えられ、国内最大の胡桃生産地となった[3]。これらに加えてパンパスグラスの大生産地でもある。

1887年、サザン・パシフィック鉄道がウィッティアを通る最初の支線を建設した。この鉄道で1880年代の好景気が起こった。1906年には、年間で貨車650両のオレンジと、250両のレモンが鉄道で出荷された。1904年、パシフィック電鉄が、ロサンゼルス市からウィッティアまで「ビッグ・レッド・カーズ」と呼ぶトロリー線を開通させた。その最初の20年間で毎年100万人以上がこの路線を利用してロサンゼルス市との間を往復した[3]。胡桃の木は1887年に植えられ、国内の主要生産地になった。

第二次世界大戦後、ウィッティアは急速に成長し、南カリフォルニアでの住宅不足に駆り立てられて、オレンジ園の分割が始まった。1955年、シビックセンター複合ビルが完成し、1955年3月8日に市政委員会最初の会合がその新しい議場で開催された。市はウィッティア・ブールバードやイーストウィッティアの一部を併合して拡大を続け、1961年の併合では人口が28,000人増えて、約67,000人になった[3]
市名の由来ジョナサン・ベイリー邸

ウィッティアの町が設立された当初は小さな孤立した町であり、ジョナサン・ベイリーとその妻のレベッカが最初の住人に入っていた。この夫妻はクエーカーの信仰と慣習に従い、その玄関で宗教集会を開いた。町が成長すると、市民は尊敬されるクエーカー詩人ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアから市名を付けた。ウィッティアが献呈の詩を書いており、ウィッティア博物館の彫像と小さな展示物で今日も顕彰されている。その像の1つは公園にあり、またその詩『裸足の少年』[4]を記した像は市役所の傍にあった。ウィッティアがこの地に足を踏み入れたことは無かったが、市はその名前を維持し、クエーカーの伝統に根付いている[3]
カレッジの歴史

1887年、ピッカリング土地・水道会社がカレッジを建てるために20エーカー (80,000 m2) の土地を取って置いたが、土地ブームの崩壊のために建設が中断された。カレッジの建設は間歇的に進行したが、1891年に設立していたウィッティア・アカデミーが1896年7月30日に公式に校名をウィッティア・カレッジに変更し、100名の学生を受け入れた。この学校のマスコットは「ザ・ポエット」(詩人)である。1906年までに、研究所、寄宿舎、大型の体育館および運動場を持つ教育機関になった。1890年代の経済不況のために、最初の学士号が与えられたのは17年後だった[3]

ウィッティア・カレッジのメンデンホール・ビルは、レオナ・メイ・メンデンホールがその夫のオスカーの栄誉に献げて名付けたものである。メンデンホール家はウィッティア設立時の家族に入っていた。オスカーの弟サミュエル・メンデンホールは上水道や郵便局の設立に貢献した。メンデンホール家はサンキスト・オレンジやブルーダイアモンド・クルミの大生産者だった。
クエーカーの歴史

1887年、コムストック・アベニューとウォードマン通りの角に最初のクエーカー集会所が建てられた。この100席しか無かった集会所では直ぐに満員になるようになり、1902年、フィラデルフィア通りとワシントン・アベニューの角に新しく大きなビルが建設された。1912年までに教徒は1,200人まで増加し、1917年には第3のビルが同じ場所に建てられた。この建物は1,700人の収容能力があり、バルコニーを備え、マホガニー壁板と信者席のある煉瓦造りだった。現在の集会所は1975年に完成したものであり、多くの建築的要素に加えて、ステンドグラス窓やマホガニーの内装など1917年建設ビルの材料を用いている[5]
ウィッティア・ナローズ地震

1987年10月1日午前7時42分、ウィッティア・ナローズ地震が襲った。震源はウィッティアの北北西6マイル (10 km) だった。マグニチュード5.9を記録し、8人が負傷し、ウィッティア・アップタウンの歴史ある建物に大きな被害を与えた。その3日後の10月4日午前3時59分、マグニチュード5.2の大きな余震が起きて、被害を拡大した。既に危険な領域の境界線上にあると判断されていたビルや住居が、危険、あるいは生活不可能と判断された。その後の数年間で、地震によるかなりの被害を受けたアップタウン事業地区は衰退もしており、新しい開発計画の焦点になったが、多くの市民からの反対に遭った。地震の瓦礫の中から、1987年にウィッティア保存協会が結成され、災害後の歴史ある建物や住宅の解体を止めようとしていた。市も歴史資源委員会を創設し、史跡指定、歴史地区とミルズ法提案の承認を監督させている。

ウィッティア・ナローズ地震はショッピングモールのザ・クアッド・アット・ウィッティアも破壊しており、再建する必要性が生じた。
地理と気候


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