イーヴシャムの戦い
Battle of Evesham
第二次バロン戦争中
イーヴシャムの戦いにおけるシモン・ド・モンフォールの死と四股切断
時1265年8月4日 (1265-08-04)
場所ウスターシャー、イーヴシャム
イーヴシャムの戦い(Battle of Evesham)は、1265年8月4日にイングランド中南部で行われた戦いで、当時同地域に存在したイングランド王国で13世紀に巻き起こった第二次バロン戦争における主戦の1つである。「シモン・ド・モンフォールの議会」の招集[2]で知られるレスター伯シモン・ド・モンフォールを初めとする男爵たちが、父王ヘンリー3世の軍を率いる王太子エドワード(後の英王エドワード1世)に敗北し、シモン・ド・モンフォールやその子のヘンリー・ド・モンフォールなどは戦死した。イーヴシャム(英語版)はウスターシャー南東部にある地名(現マーケットタウン)である。
ルイスの戦いで王政を掌握したシモン・ド・モンフォールだったが、何人もの近しい味方の離反とルイスの戦いで捕虜にされた[3]エドワード王子の脱走により、次第に守勢に立たされるようになった。イーヴシャムで王党派と戦うこととなったモンフォールは自軍の2倍の規模の軍隊と対峙した。戦いは忽ち大虐殺に転じ、モンフォール自身も殺され、その身体は切り刻まれた。この戦いは、同時代の歴史家ロバート・オブ・グロスター(英語版)はこの顛末を「イーヴシャムの殺人であり戦闘は皆無であった」と評した[4]。この戦いで王権は事実上回復したが、1266年10月25日に双方の和解を意図したケニルワース宣言(英語版)が調印されるまで、散発的な抵抗(ケニルワース包囲戦(英語版)など)は続いた。 第6代レスター伯シモン・ド・モンフォールは、この前年の1264年に起こったルイスの戦いで勝利し、イングランド王国政府で支配的な地位を獲得していた。モンフォールはまた英王ヘンリー3世、エドワード王子(のちのエドワード1世)、およびヘンリーの弟であるリチャード・オブ・コーンウォール[注釈 2]を捕縛した[3][5]。しかし、主要な同盟者を失ったため、その影響の及ぶ範囲は急速に縮み始め、2月には第6代ダービー伯のロバート・ド・フェラーズ
前史
ウェールズ・マーチズ(英語版)の領主たちが反乱を起こしたため、モンフォールはウェールズの王子であるサウェリン・アプ・グリフィズに助力を要うた。サウェリンは、モンフォールが自分の爵位を全面的に認め、自身の軍事的な利益をすべて維持できることを約束することを見返りとして援助に同意した。この同盟がモンフォールにもたらした利益は何であったにせよ、この大きな譲歩は国内での人気を犠牲とした[9]。その一方、王太子エドワードはグロスターを包囲し、同市を6月29日に陥落せしめた[10]。この頃モンフォールの目標は、息子のシモン6世・ド・モンフォール(英語版)の軍隊と団結すること、そして王立軍と交戦することへと変わったが、シモン6世はロンドンから西に移動するのが遅すぎた。結果エドワードはシモン6世が男爵家の拠点であるケニルワース(英語版)に到達したところを攻撃し、その軍に城壁の外で兵を四つ裂きにするなど大きな損失を与えることができた[11]。そこからエドワードは南進し、8月4日、ケニルワースで捕獲した多くの旗を使ってモンフォールに援軍が到着したと思わせ、モンフォールをエイヴォン川の湾曲部分に閉じ込めて唯一の橋を封鎖し、息子の援軍なしで戦わせることに成功した[12]。このことに気づいたモンフォールは、次のように述べたという。「奴らは何と巧みに進軍していることか。我々の身体は奴らのものでも、我々の魂は神のものだ」[13]。
戦い時のイングランド王ヘンリー3世への反乱を起こしていたシモン・ド・モンフォールやその息子らは、このイーヴシャムの戦いで戦死した。
ルイスの戦いの教訓を生かし、王党派は高台に陣地を構えた。イーヴシャムのすぐ北にあるグリーンヒル(英語版)と呼ばれる尾根に沿って、王太子エドワードは左翼に、グロスター伯ギルベール・ド・クレア(英語版)は右翼に軍を構えた[14]。朝8時頃、雷雨が激しくなり、モンフォールはイーヴシャムの町を後にした[15]。ルイスでは、バロン軍の軍隊が軍服の白十字によって神の運命をより強く感じ、この日の勝利への自信を深めていた[16]。今度は王家の軍隊が先陣を切り、赤い十字架を目印にした[17]。年代記作家ウィリアム・リシャンガー(英語版)によると、モンフォールは王党派の軍の前進を見たとき、「奴らは自分で(あの行進を)学んだのではなく、私から教わったのだ[注釈 3]」と大呼したという[18]。