イーヴァル・クルーガー
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イーヴァル・クルーガー
イーヴァル・クルーガー:1920年
生誕 (1880-03-02) 1880年3月2日
 スウェーデン
カルマル
死没1932年3月12日(1932-03-12)(52歳)
フランス
パリ
死因自殺
墓地Norra begravningsplatsen
職業実業家
子供不明
親エルンスト・アウグスト・クルーガー (1852年-1946年)
ヤンヌ・エメリー・クルーガー (1856年-1949年)
署名

イーヴァル・クルーガー(Ivar Kreuger、1880年3月2日 - 1932年3月12日)は、スウェーデンの土木技術者資本家起業家実業家である。目次

1 概要

2 誕生

3 アメリカでの若年期

4 建設業

5 マッチ事業

6 その他の事業

7 イーヴァル・クルーガー支配下の主な企業 1930年

8 1925-1930年の外国政府へのクルーガー・グループの融資[12]

9 クルーガー帝国の終焉

10 クルーガー恐慌

11 私生活

12 クルーガーの死に関する最近の論争

13 脚注

13.1 注釈

13.2 出典


14 参考文献

15 関連項目

16 外部リンク

概要

イーヴァル・クルーガーは1908年に新しい建築工法に特化した建築会社クルーガー&トール社(Kreuger & Toll Byggnads AB)を共同で設立した。積極的な投資と革新的な金融手法で彼は世界的なマッチと金融の帝国を築き上げた。戦間期にクルーガーはヨーロッパ中央アメリカ南アメリカの各国政府とマッチの独占を交渉し、最終的に世界のマッチ生産の3分の2を支配することになり「"マッチ王"("Match King")」として知られるようになった[1]。幾分ポンチ方式(Ponzi scheme)として評されるクルーガーの金融帝国は、マッチの独占[2]を基礎としていた。世界恐慌の最中に崩壊したが、アクセル・ヴェナー=グレンに多くの資産を買い取られた。1932年3月、クルーガーは銃で自殺した。
誕生 16歳で卒業したイーヴァル・クルーガー、1896年6月

イーヴァル・クルーガーはカルマルのマッチ製造業者エルンスト・アウグスト・クルーガー(Ernst August Kreuger 1852年 - 1946年[3]と妻のヤンヌ・エメリー・クルーガー(Jenny Emelie Kreuger 1856年 - 1949年、旧姓 フォルスマン Forssman)の間に長男としてカルマルで生まれた。イーヴァルにはイングリット(Ingrid 1877年 生)、ヘルガ(Helga 1878年 生)、トルステン(Torsten 1884年 生)、グレタ(Greta 1889年 生)、ブリッタ(Britta 1891年 生)という5人の兄弟がいた。クルーガー家はカルマルに幾つかのマッチ工場を所有していた。学生時代にイーヴァルは家庭教師のお陰で2学年飛び級して16歳で卒業した。彼はストックホルムスウェーデン王立工科大学で学業を続け、機械工学土木工学修士課程を修め20歳の時に卒業した。[4]
アメリカでの若年期

世紀が変わった後の7年間にイーヴァル・クルーガーは旅行に出て海外のアメリカ合衆国(米国)、メキシコ南アフリカで技術者として働いたが、ほとんどの時間を米国で過ごした。南アフリカでは友人のアンデシュ・ヨルダール(Anders Jordahl)と共に短期間レストランを経営したが間もなく売却した。クルーガーがニューヨークのコンソリデーティッド・エンジニアリング&コンストラクション社(The Consolidated Engineering & Construction Co.)とパービー&ヘンダーソン社(Purdy & Henderson)で働いている間にトラスド・コンクリート・スチール社(Trussed Concrete Steel Co.)で使用されていた鉄筋コンクリート工法の特許ユリウス・カーン[5]工法に出会った。この新しい工法は当時まだスウェーデンには導入されていなかった。1907年にクルーガーはこの工法のスウェーデンとドイツ市場での代理権を獲得し、両国で同時にこの新しい工法を導入するために1907年末にスウェーデンに帰った。当時のスウェーデンで最も鉄筋コンクリート工法に精通していた内の1つがイーヴァル・クルーガーの従兄弟ヘンリク・クルーガー(Henrik Kreuger)が勤めていたストックホルムのスウェーデン王立工科大学(KTH)であった。
建設業 建築会社クルーガー&トール社の創立者:パウル・トール(立ち姿)、ヘンリク・クルーガー(左)とイーヴァル・クルーガー。1908年、クルーガー&トール社の初期の仕事の1つであるソルナ)の陸橋を検査中

1908年5月にイーヴァル・クルーガーは、建設会社キャスパー・ヘグルンド社(Kasper Hoglund AB)で働いていた技術者のパウル・トール(Paul Toll)とスウェーデン王立工科大学で土木工学の教授を務め企業の技術コンサルタントをしていた従兄弟のヘンリク・クルーガーと共に建築会社クルーガー&トール社(Kreuger & Toll)をスウェーデンで設立した。ドイツではイーヴァル・クルーガーは米国時代からの仲間アンデシュ・ヨルダールと共に「ドイツ・カーン鉄鋼会社(Deutsche Kahneisengesellschaft)」[6]を設立した。[7].

当時のスウェーデンでは新しい建築工法は十分には受け入れられず、新工法の拡販のためにクルーガーは幾度か講義を行い、一流の専門誌「テクニスク・ティドスクリフト(Teknisk Tidskrift)」に新工法のイラスト入りの記事を書いた。[8]

新しい建築工法は間もなく成功を収め、会社はストックホルム・オリンピアスタディオン1911年 - 1912年)、ストックホルム市庁舎の基礎工事(1912年 - 1913年)、ストックホルムのデパートNK1913年 - 1914年)といった有名な建築物を幾つか受注した。これらの先進的なプロジェクトの裏で主任技師を務めたのはヘンリク・クルーガーであった。

数年後、イーヴァルがカルマルにある父親のマッチ工場を引き継いだ時に、彼は建物や橋を建設するよりも新しい会社を設立することに重点を置くようになった。その結果1917年にクルーガー&トール社は、パウル・トールが大部分を所有するクルーガー&トール建設(Kreuger & Toll Construction AB)とイーヴァル・クルーガーが支配人と筆頭株主を務めるクルーガー&トール持株会社(Kreuger & Toll Holding AB)の2つの会社に分割された。同時にクルーガーはスウェーデン・マッチ社(Swedish Match)を設立した。イーヴァル・クルーガーはクルーガー&トール建設の経営陣に入っていなかったが、パウル・トールは当初からHufvudstaden社(Hufvudstaden AB:1915年にイーヴァル・クルーガーが設立した不動産会社)の建設計画の調整役としてクルーガー&トール持株会社の経営陣に名を連ねていた。パウル・トールの会社に対するイーヴァル・クルーガーの持分は公表されていないが、パウル・トールはこの新しく設立された建設会社に対し1917年に60% 、1930年頃には66%の持分を所有していた。クルーガー&トール建設は、如何なるクルーガー&トール持株会社の組織図上にも載ったことが無かった。

スウェーデンの銀行家オスカー・リュードベック(Oscar Rydbeck:1878年 - 1951年)はイーヴァルと近しい仲になり、金融事業に於いてイーヴァルの重要な教師の役割を果たした。リュードベックは1912年頃から1932年のクルーガー恐慌までクルーガー&トール社のコンサルタントを務めた。
マッチ事業 スウェーデン・マッチ社の本社「マッチ・パレス(Matchstick Palace)」(ストックホルム)内のイーヴァル・クルーガー:1930年頃 オスカー・リュードベック (1878?1951) 、イーヴァル・クルーガーの御用銀行家:1930年頃

1911年 - 1912年にイーヴァル・クルーガーの父エルンスト・クルーガー、叔父フレディック・クルーガー(Fredik Kreuger)と弟トルステン・クルーガーが経営していたカルマル、フレドリクスダル(Fredriksdal)、ムンステルオース(Monsteras)のクルーガー家のマッチ工場は財政的な窮地に陥っていた。イーヴァルは銀行家のオスカー・リュードベックから工場の資本を増強するために工場を株式会社に改組するようにアドバイスを受けた。これはスウェーデンの全マッチ産業と共にノルウェーフィンランドの主要なマッチ会社の再編の始まりとなった。

一家のマッチ工場を基礎としてイーヴァル・クルーガーは最初にスウェーデン企業の「カルマル=ムンステルオース・マッチ製造(AB Kalmar-Monsteras Tandsticksfabrik)」を1912年に設立し、父エルンスト、叔父フレディックが主要株主となり弟のトルステン(Torsten)が支配人に任命され、イーヴァルは経営陣の一員となった。

この会社とスウェーデン国内の幾つかの小さなマッチ会社との合併でイーヴァル・クルーガーを総支配人とする「スウェーデン・マッチ製造連合(AB Svenska Forenade Tandsticksfabriker)」[9]1913年に設立された。後にスウェーデンで最大のマッチ会社「イェンシェーピン=ヴァルカン(AB Jonkoping-Vulcan)」と合併し、「スウェーデン・マッチ(Svenska Tandsticks AB)」(Swedish Match)が1917年に設立された。クルーガーは元々1912年12月にイェンシェーピン=ヴァルカン社を合併しようとしたが、ヴァルカン社はスウェーデンで首位のマッチ会社だったためこれには興味を示さなかった。そこでクルーガーは全てのマッチ会社と共にスウェーデン国内と周辺で見つけられるだけの原材料供給会社を買収し始めた。最終的にイェンシェーピン=ヴァルカン社は、投資会社と当時最大の2大銀行の「ハンデルス銀行」と「スカンディナヴィスカ銀行」を通じて供給される莫大な資本の前に合併を受け入れざるを得なかった。クルーガーの横でこの買収劇を操っていたのは彼の御用銀行家オスカー・リュードベックであった。新会社の株式総数は450,000株であり、223,000株をイーヴァル・クルーガー個人が60,000株を彼の新しい持株会社であるクルーガー&トール持株会社が所有した。

この企業体は、今や工場で使用する製造機械の主要なメーカー全てを含むスウェーデンのマッチ産業全体を網羅しており、マッチ産業に原材料を供給する主要な会社も支配下に治めていた。1917年のスウェーデンのマッチ産業で働く労働者数の合計は約9,000人であった。この期間にクルーガーはノルウェー(ブリン:Brynとハルデン:Halden)とフィンランド(ヴィーボリ:Wiborgsとケッコーラ:Kekkola)で最大のマッチ製造会社も買収した。

しかし、クルーガーは企業を"買収"するのみならずマッチ産業に生産、管理と販売の双方の能率を高めるための新しい手法である大規模製造設備と販売機構に新しい考え方を導入した。これはそれ以後産業界で規範となる国際的な巨大企業の誕生であった。

9年間(1908年 - 1917年)にクルーガーは、新しい巨大な建設会社を何とか設立すると共にノルウェーとフィンランドの主要なマッチ会社を含むスウェーデン・マッチ製造連合を設立した。北欧のマッチ産業界に於けるこの新しい企業組織体は、その他の地域の巨大なマッチ製造会社の手強い競争相手となった。

官製独占を吸収してスウェーデン・マッチ社が拡大していったことにより、このスウェーデン企業は世界最大のマッチ製造業者となった。クルーガーはクルーガー&トール社の子会社を米国に立ち上げ、ニューヨークのリー・ヒギンソン社(Lee, Higginson & Co.)と共にインターナショナル・マッチ社(International Match Corporation:IMCO)を設立した。この企業体は最終的には全世界のマッチ製造のほぼ75%を支配した。
その他の事業

1925年 - 1930年、ヨーロッパの多くの国々が第一次世界大戦後の疲弊に苦しんでいた。クルーガーの会社は復興を促進するために各国政府に対し融資を行い、政府は担保としてクルーガーの帝国による自国でのマッチ独占権を認めた。融資の見返りにクルーガーはマッチの製造、販売、流通に関する独占又は完全な独占を手中にした。独占契約の内容は個々の国で異なった。これらの取引の裏でスウェーデンと米国の両政府がどの程度関わっていたかは定かではない。スウェーデンと米国の銀行から注ぎ込まれる資金を元にしたクルーガーによる直接融資と膨大な量の社債(participating debentures)の発行により資本は巨大に膨れ上がっていった。

クルーガーはマッチ産業のみならず北部スウェーデンのほとんどの森林産業の支配権を得て、セルロース製品カルテルの主導権を握ろうと計画した。

パルプ製造業のスベンスカ・セルローサの設立後、1929年にクルーガーは電話機会社のエリクソン鉱業)のボリデンス・グルフ(Bolidens Gruv AB)の主な株式とボールベアリング製造のSKF、銀行のスカンディナヴィスカ・クレジット(Skandinaviska Kreditaktiebolaget)やその他の企業の主要な持分を手に入れた。

海外ではクルーガーはドイツのドイツ・ユニオン銀行(Deutsche Unionsbank)とフランスのパリ・ユニオン銀行(Union de Banques a Paris)を買収し、その資金は買収した会社自身に支払わせた。新しい投資を誘致したり新たに乗っ取った会社の基金を不正に略取することにより常に増加する配当を払い込み、利益を計上するというエンロン方式の錬金術を数十年先取りした彼の発明でこれらの手口を必要、且つ可能なものにした。

1931年には200と目される企業がクルーガーの支配下にあったが、世界恐慌の発生がクルーガーと彼の帝国を最終的に崩壊へと追い込むクルーガーの収支を露わにする主要な要因となった。


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