旗紋章
行政
国 イタリア
州 エミリア=ロマーニャ
県/大都市 ボローニャ
CAP(郵便番号)40026
市外局番0542
ISTATコード037032
識別コードE289
分離集落#分離集落参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイトリンク
イーモラ(伊: Imola)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、人口約69,000人の基礎自治体(コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネでもある。イモラとも表記される。
都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァやチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1のエミリア・ロマーニャGPやサンマリノGPが行われたことで知られる。 標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。 ボローニャ県東部、サンテルノ川 (Santerno 隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のFEはフェラーラ県、RAはラヴェンナ県所属を示す。 イーモラにおけるイタリアの気候分類 (it この都市はローマ時代の紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。 Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。 『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ(西ゴート王)とガッラ・プラキディア(ローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 ? 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。 東ローマ帝国のラヴェンナ総督領を経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナ、ファエンツァ、ボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも Castrimolesi(Castro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。 1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)マギナルド・パガーニ
名称
ロマーニャ語: Jomla
地理
位置・広がり
隣接コムーネ
アルジェンタ (FE)
バニャーラ・ディ・ロマーニャ (RA)
ボルゴ・トッシニャーノ
カザルフィウマネーゼ
カステル・ボロニェーゼ (RA)
カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ
コンセーリチェ (RA)
ドッツァ
マッサ・ロンバルダ (RA)
メディチーナ
モルダーノ
リオーロ・テルメ (RA)
ソラローロ (RA)
気候分類・地震分類
歴史
古代
中世
ルネサンス期
1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世 (Lippo II Alidosi) にpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。