イーモラ
[Wikipedia|▼Menu]

イーモラ
Imola
Duomo di Imola


旗紋章

行政
イタリア
エミリア=ロマーニャ
県/大都市 ボローニャ
CAP(郵便番号)40026
市外局番0542
ISTATコード037032
識別コードE289
分離集落#分離集落参照
隣接コムーネ#隣接コムーネ参照
公式サイトリンク
人口
人口69298 人 (2023-01-01 [1])
人口密度338.1 人/km2
文化
住民の呼称imolesi
守護聖人San Cassiano [2]
祝祭日8月13日 [2]
地理
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度21分12秒 東経11度42分51秒 / 北緯44.35333度 東経11.71417度 / 44.35333; 11.71417座標: 北緯44度21分12秒 東経11度42分51秒 / 北緯44.35333度 東経11.71417度 / 44.35333; 11.71417
標高47 (7 - 323) [3] m
面積204.96 [4] km2
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left} イーモラの位置

ボローニャ県におけるコムーネの領域
ポータル イタリア
テンプレートを表示

イーモラ(: Imola)は、イタリアエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県にある都市であり、人口約69,000人の基礎自治体コムーネ)。ボローニャに次ぎ、県内第二の人口を持つコムーネでもある。イモラとも表記される。

都市の歴史はローマ時代にさかのぼる。ルネサンス期にはカテリーナ・スフォルツァチェーザレ・ボルジアがこの地を拠点に活動した。15世紀に建築された大聖堂や要塞は都市の歴史的なランドマークとなっている。イモラ・サーキットは、かつてF1エミリア・ロマーニャGPサンマリノGPが行われたことで知られる。
名称

標準イタリア語以外では以下の名称を持つ。

ロマーニャ語: Jomla

地理
位置・広がり

ボローニャ県東部、サンテルノ川 (Santerno) のほとりに位置する都市である。フォルリの西北西約30km、州都・県都ボローニャの南南東約33km、ラヴェンナの西南西約40kmの距離にある。ロマーニャ地方に含まれる。
隣接コムーネ

隣接するコムーネは以下の通り。括弧内のFEはフェラーラ県、RAはラヴェンナ県所属を示す。

アルジェンタ (FE)

バニャーラ・ディ・ロマーニャ (RA)

ボルゴ・トッシニャーノ

カザルフィウマネーゼ

カステル・ボロニェーゼ (RA)

カステル・グエルフォ・ディ・ボローニャ

コンセーリチェ (RA)

ドッツァ

マッサ・ロンバルダ (RA)

メディチーナ

モルダーノ

リオーロ・テルメ (RA)

ソラローロ (RA)

気候分類・地震分類

イーモラにおけるイタリアの気候分類 (it) および度日は、zona E, 2292 GGである[5]。また、イタリアの地震リスク階級 (it) では、zona 2 (sismicita media) に分類される[6]
歴史
古代

この都市はローマ時代紀元前82年に建設され、独裁官ルキウス・コルネリウス・スッラに因んで Forum Cornelii と呼ばれた。農業と交易の中心地であり、陶器で知られた。
中世

Imola という名前が初めて用いられるのは7世紀である。ランゴバルド人たちはこの地の城砦(現在の Castellaccio. ランゴバルド王クレーフィが築いたとされる)にImola と名付けたのであるが、やがてこれが都市そのものの名前に用いられるようになった。

『ランゴバルド史』を著した8世紀の歴史家パウルス・ディアコヌスによれば、イーモラの地では412年にアタウルフ西ゴート王)とガッラ・プラキディアローマ皇帝テオドシウス1世の娘)の結婚が行われた。ゴート戦争(535年 ? 554年)とランゴバルド人の侵入(568年)以後、この地は東ローマ帝国と蛮族が交互に支配を行った。

東ローマ帝国のラヴェンナ総督領を経て、ローマ教皇の支配下に入った。以後数世紀にわたってイーモラは、ラヴェンナファエンツァボローニャといった諸都市と抗争し、また都市内でも Castrimolesi(Castro Imolese 出身者) と Sancassianesi(サンカッシアーノ出身者)の紛争が絶え間なく続いた。こうした抗争の中で、イーモラの共和主義的な都市憲章がつくられた。教皇派と皇帝派の争いにおいて、イーモラはおおむねギベリン(皇帝派)に付いているが、ゲルフ(教皇派)に鞍替えをすることもあった(たとえば1248年)。
ルネサンス期

1296年、ギベリンのコンドッティエーレ(傭兵隊長)マギナルド・パガーニ(イタリア語版)は、ボローニャの支配下にあったイーモラを占拠した。パガーニは1299年にポデスタ(英語版)(首長)に選出され、1302年の死までその席にあった。

1334年、ローマ教皇ベネディクトゥス12世は、アリドシ家のリッポ2世 (Lippo II Alidosi) にpontifical vicarの称号とともに、イーモラの都市とその領域の支配権を与えた。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:37 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef