イーゼンブルク伯領
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15世紀後半のイーゼンブルク伯の紋章イーゼンブルク伯領(右側赤色)およびニーダーイーゼンブルク伯領(左側真ん中赤色)、1400年頃

イーゼンブルク伯領(Grafschaft Isenburg)は、神聖ローマ帝国の帝国伯領の1つ。イーゼンブルク家(Haus Isenburg)が領主として治めた。同家はイーゼンブルク城(Isenburg、現在のラインラント=プファルツ州ノイヴィート郡)を名字の地とする。18世紀には、伯爵領は現在のヘッセン州カッセル行政管区およびダルムシュタット行政管区に広がっていた。19世紀以降は陪臣化され、シュタンデスヘル家門となった。
歴史

イーゼンブルク家の先祖は、ライン渓谷中流上部およびヴェスターヴァルト地方(Westerwald)に住む自由騎士(Edelfrei)であった。史料で裏付けられる同家の最初の居館は、ロマースドルフ(Rommersdorf、現在のノイヴィート市ハインバッハ=ヴァイス(Heimbach-Weis))にあった。1100年頃、同家はザイン川(Sayn)河畔とイザーバッハ(Iserbach)の所領を入手してイーゼンブルク城を建築、これらをイーゼンブルク騎士領(Herren von Isenburg)と称した[1]。当主たちは12世紀末までに、結婚を通じてアルンシュタイン伯領(Grafen von Arnstein)やコーベルン(Kobern-Gondorf)を相続した。

イーゼンブルク家では12世紀より家系の分裂が始まった。1210年には、すでに4つないし5つの系統に分裂していた。新しい分家が創設されたびに、所領は細かく分割された。同じく、新しい分家が出来るたびに新しい城も建築された。

1179年 - 1210年 ブラウンスベルク城(Burg Braunsberg)、アンハウゼン(Anhausen)郊外

1194年 コーベルン城(Niederburg Kobern)、モーゼル川河畔

1213年 グレンツァウ城(Burg Grenzau)、ヘール=グレンツハウゼン(Hohr-Grenzhausen)郊外

1258年/1259年 アーレンフェルス城(Schloss Arenfels)、バート・ヘニンゲン(Bad Honningen)郊外[1]

イーゼンブルク家は最初期の分裂に際し、大きく分けてブラウンスベルク系、リンブルク系、ケンペニヒ系の3つに分裂した。ケンペニヒ系は最も早い1424年に断絶した。現在も続くイーゼンブルク家諸家は、リンブルク系の流れを汲んでいる。

ブラウンスベルク系は13世紀にヴィート伯領(Grafschaft Wied))の半分を相続し、14世紀には伯領の残り半分も獲得して新しいヴィート伯家を創設し、この伯家は15世紀半ばまで続いた。ブラウンスベルク系は1664年、イーゼンブルク=グレンツァウ伯爵家の断絶により男系が途絶え、その遺領はヴァルダードルフ家(Walderdorff)とヴィート=ノイヴィート家の共同管理地域(Kondominium)とされた。

リンブルク系の諸系統の中で15世紀末まで続いていたのは、ビューディンゲン(Budingen)を本拠とする家系のみとなっていた。この家系も1511年にはロンネブルク城(Burg Ronneburg)城主系統とビルシュタイン城(Schloss Birstein)の城主系統に分かれた。前者は1601年に断絶し、後者は1628年から1631年にかけてビューデンゲン系統とオッフェンバッハ系統に分かれた。

1744年、嫡長子系のイーゼンブルク=ビルシュタイン伯ヴォルフガング・エルンストは神聖ローマ皇帝カール7世より帝国諸侯(フュルスト)に列せられた。

1806年、イーゼンブルク=ビルシュタイン侯領は他系統のイーゼンブルク諸家領を併合し、ライン連邦に参加した。イーゼンブルク侯領は1815年のライン連邦の崩壊とともにオーストリア帝国に占領された。翌1816年には改めて、イーゼンブルク侯領の大部分はヘッセン大公国に、わずかな部分はヘッセン選帝侯国に併合された。ヘッセン家の統治者はこのとき以後、「イーゼンブルク侯(Furst zu Isenburg)」の称号をその統治者称号に加えた[2]。ヘッセン大公国では、イーゼンブルク諸家の旧領はビューディンゲン郡(Landratsbezirk Budingen)という単一の行政単位にまとめられた。

イーゼンブルク=ビューディンゲン家は1840年に、イーゼンブルク=ヴェヒタースバッハ家は1865年にそれぞれヘッセン大公家より侯(フュルスト)の称号を授けられた。イーゼンブルク=ビューディンゲン家は侯位を授けられた際、家名の中の「イーゼンブルク」の綴りを「Isenburg」から「Ysenburg」に変更している。なお、1936年にイーゼンブルク=ヴェヒタースバッハ家の家長が子供のいないイーゼンブルク=ビューディンゲン家の家長と養子縁組し、その継嗣となったことにより、両家は実質的に一本化されている。

また、イーゼンブルク=ビルシュタイン侯爵家は1913年、家名を「(Furst) zu Isenburg und Budingen」から「(Furst) von Isenburg」に変更し、単にイーゼンブルク侯爵家とだけ名乗っている。イーゼンブルク家諸家で現存する系統は、ビューディンゲン系とヴェヒタースバッハ系(実質的には一本化)、ビルシュタイン系の3系統のみとなる。
イーゼンブルク家の諸家

イーゼンブルク(Isenburg)
[3]:1137年分裂

イーゼンブルク=ブラウンスベルク(Isenburg-Braunsberg):1210年頃に分裂

イーゼンブルク=ヴィート(Isenburg-Wied):1454年断絶、ルンケル家(Haus Runkel)が遺領相続

ニーダーイーゼンブルク(Nieder-Isenburg):1502年分裂

イーゼンブルク=グレンツァウ(Isenburg-Grenzau):1664年断絶

イーゼンブルク=ノイマーゲン(Isenburg-Neumagen):1554年断絶、ザイン伯家が遺領相続



イーゼンブルク=ケンペニヒ(Isenburg-Kempenich):1197年創設、1424年断絶

イーゼンブルク=リンブルク(Isenburg-Limburg):1137年創設、1146年分裂

イーゼンブルク=コヴェルン(Isenburg-Covern):1260年断絶

イーゼンブルク=グレンツァウ(Isenburg-Grenzau):1287年分裂

イーゼンブルク=アーレンフェルス(Isenburg-Arenfels):1371年断絶、イーゼンブルク=ヴィート系統が遺領相続

イーゼンブルク=クレーベルク(Isenburg-Cleberg):1340年分裂

イーゼンブルク=グレンツァウ(Isenburg-Grenzau):1439年断絶

イーゼンブルク=ビューディンゲン(Isenburg-Budingen):1442年に帝国伯に陞爵、1511年分裂

イーゼンブルク=ロンネブルク(Isenburg-Ronneburg):1601年断絶

イーゼンブルク=ビルシュタイン(Isenburg-Birstein):1628/1633年分裂

イーゼンブルク=ビューディンゲン(Isenburg-Budingen):1685年分裂

イーゼンブルク=ビューディンゲン(Isenburg-Budingen):1840年に侯爵に陞爵

イーゼンブルク=ヴェヒタースバッハ(Isenburg-Wachtersbach):1865年に侯爵に陞爵(1936年、養子縁組によりビューディンゲン家と統合)

イーゼンブルク=メーアホルツ(Isenburg-Meerholz):1929年断絶

イーゼンブルク=マリエンボルン(Isenburg-Marienborn):1725年断絶


イーゼンブルク=オッフェンバッハ(Isenburg-Offenbach):1685年分裂

イーゼンブルク=ビルシュタイン(Isenburg-Birstein):1744年に侯爵に陞爵、1913年よりイーゼンブルク(Isenburg)に改名

イーゼンブルク=フィリップスアイヒ(Isenburg-Philippseich):1920年断絶(貴賤結婚の子孫のみ存続)








歴代当主

現在も続くイーゼンブルク(=ビルシュタイン)侯爵家およびイーゼンブルク=ビューディンゲン侯爵家の歴代当主を挙げる。両家の共通の先祖はイーゼンブルク=ビューディンゲン伯ヴォルフガング・エルンスト1世(1560年 - 1633年)であり、前者の始祖はその長男ヴォルフガング・ハインリヒ、後者の始祖は八男ヨハン・エルンストである。
イーゼンブルク=ビルシュタイン家
イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン・イン・オッフェンバッハ伯


1633年 - 1635年 ヴォルフガング・ハインリヒ(Wolfgang Heinrich)

1635年 - 1685年 ヨハン・ハインリヒ(Johann Ludwig)

1685年 - 1718年 ヨハン・フィリップ(Johann Philipp)

イーゼンブルク=ビューディンゲン・イン・ビルシュタイン伯


1685年 - 1711年 ヴィルヘルム・モーリッツ(Wilhelm Moritz)

1711年 - 1744年 ヴォルフガング・エルンスト1世(Wolfgang Ernst I.) - 1744年に侯爵(Furst zu Isenburg und Budingen)に陞爵

イーゼンブルク・ウント・ビューディンゲン・イン・ビルシュタイン侯


1744年 - 1754年 ヴォルフガング・エルンスト1世(Wolfgang Ernst I.)

1754年 - 1803年 ヴォルフガング・エルンスト2世(Wolfgang Ernst II.)

1803年 - 1820年 カール1世(Karl I. )

1820年 - 1866年 ヴォルフガング・エルンスト3世(Wolfgang Ernst III.)

1866年 - 1899年 カール2世(Karl II.)

1899年 - 1918年 フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph) - 1913年にイーゼンブルク侯(Furst von Isenburg)と改称

イーゼンブルク侯家家長


1918年 - 1939年 フランツ・ヨーゼフ(Franz Joseph)

1939年 - 1956年 フランツ・フェルディナント(Franz Ferdinand)

1956年 - 2018年 フランツ・アレクサンダー(Franz Alexander)

2018年 - アレクサンダー(Alexander)

イーゼンブルク=ビューディンゲン家イーゼンブルク=ビューディンゲン侯爵家の紋章
イーゼンブルク=ビューディンゲン伯


1633年 - 1673年 ヨハン・エルンスト1世(Johann Ernst I.)

1673年 - 1693年 ヨハン・カジミール(Johann Casimir)

1693年 - 1708年 ヨハン・エルンスト2世(Johann Ernst II.)

1708年 - 1749年 エルンスト・カジミール1世(Ernst Casimir I.)

1749年 - 1768年 グスタフ・フリードリヒ(Gustav Friedrich)

1768年 - 1775年 ルートヴィヒ・カジミール(Ludwig Casimir)

1775年 - 1801年 エルンスト・カジミール2世(Ernst Casimir II.)

1801年 - 1840年 エルンスト・カジミール3世/1世(Ernst Casimir III./I.) - 1840年に侯爵(Furst zu Ysenburg und Budingen)に陞爵

イーゼンブルク=ビューディンゲン侯


1840年 - 1848年 エルンスト・カジミール1世(Ernst Casimir I.)

1848年 - 1861年 エルンスト・カジミール2世(Ernst Casimir II.)

1861年 - 1906年 ブルーノ(Bruno)


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