イースター蜂起
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イースター蜂起
アイルランド革命


バリケードが築かれた蜂起中のダブリン市内

1916年4月24日 ? 4月30日
場所ダブリン,
ミース県ゴールウェイ県ラウス県ウェックスフォード県で小規模戦闘
発端非暴力の手段によるアイルランド独立が失敗したと考えられたため
結果反乱軍の無条件降伏と指導者の処刑

衝突した勢力
アイルランド共和主義同盟
アイルランド義勇軍
アイルランド市民軍
Cumann na mBan
ハイバニアン・ライフルズ
Fianna Eireann イギリス軍
ダブリン市警察
王立アイルランド警察隊
指揮官
パトリック・ピアース
ジェームズ・コノリー W・H・M・ロウ准将
サー・ジョン・マクスウェル(英語版)将軍
戦力
ダブリンで1,250人,
~他の地域では2,000?3,000人だが、ほとんどまたは全く戦っていない。週末時点でダブリン市内に兵士16,000人と武装警察1,000人。
被害者数
戦死82人, 負傷1,617人, 処刑16人戦死157人, 負傷318人
市民の死者220人, 負傷600人

イースター蜂起(イースターほうき、英語:Easter Rising、アイルランド語:Eiri Amach na Casca[1])は、1916年復活祭(イースター)週間にアイルランドで起きた武装蜂起である[2]。日本では復活祭蜂起とも呼ばれる。この蜂起はイギリスの支配を終わらせ、アイルランド共和国を樹立する目的でアイルランド共和主義者たちが引き起こしたものである。1798年の反乱以降にアイルランドで起きた最大の反乱であった。

蜂起はアイルランド共和主義同盟(IRB)の軍事部門によって組織され、復活祭週月曜日の4月24日から30日まで続いた。教師であり弁護士のパトリック・ピアースに率いられたアイルランド義勇軍、ジェームズ・コノリーに率いられたアイルランド市民軍、200人の女性連盟(Cumann na mBan)がダブリンの主要部を占拠して、アイルランド共和国の英国からの独立を宣言した。アイルランドの他の地域でも幾つかの行動が起こされたが、アッシュボーン兵舎(ミース県)への襲撃以外は小規模なものであった。

蜂起は7日間の戦闘の後に鎮圧され、指導者たちは軍法会議にかけられて処刑されたが、共和主義者の武力闘争主義をアイルランド政治の中核に置くことに成功した。1918年の英国議会総選挙アイルランド島全土での最後の英国議会選挙)で、ウェストミンスターへの登院拒否と独立を標榜する共和主義者は105議席中73議席を得た。これは蜂起から2年足らずで起こったことである。1919年1月、この時まだ獄中にあった蜂起の生き残りを含むシン・フェイン党国会議員は第一回アイルランド国民議会(First Dail)を開催し、アイルランド共和国の樹立を宣言した。英国政府は新たに宣言された国家の承認を拒否し、アイルランド独立戦争へ突入することになる。
背景

アイルランド王国グレートブリテン王国に併合させグレートブリテンおよびアイルランド連合王国を成立させた1800年連合法以来、連合への反対は二つの形式をとっていた。立憲議会主義と武力闘争主義である。

1840年に統合撤回連盟を結成したダニエル・オコンネルは英国庶民院と大衆集会で連合法の撤回を求めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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