イースター島
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イースター島
Rapa Nui
Isla de Pascua
Provincia Isla De Pascua / Comuna Isla de Pascua
 
チリの県・コムーナ
イースター島の衛星写真



印章

紋章

イースター島の位置
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}イースター島太平洋での位置
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}南緯27度7分 西経109度22分 / 南緯27.117度 西経109.367度 / -27.117; -109.367座標: 南緯27度7分 西経109度22分 / 南緯27.117度 西経109.367度 / -27.117; -109.367
 チリ
バルパライソ州
パスクア島県
コムーナ パスクア島
首府ハンガロア
政府
 ? 種別基礎自治体
 ? 議会自治体政府
 ? 県知事Melania Carolina Hotu Hey[1]
 ? コムーナ首長Pedro Pablo Edmunds Paoa(PRO)
面積[2]
 ? 合計163.6 km2
人口(2016年投影人口)[3]
 ? 合計6,600人
 ? 密度40人/km2
等時帯UTC?6 (CLT)
 ? 夏時間UTC?5 (CLST)
国際電話番号+56
通貨ペソCLP
公用語スペイン語ラパ・ヌイ語
NGA UFI-905269
海岸線長60 km (37 mi)
ウェブサイト ⇒Municipality of Isla de Pascua

イースター島(イースターとう)は、チリ領の太平洋上に位置する火山島。現地語名はラパ・ヌイ(ラパ・ヌイ語: Rapa Nui)。また正式名はパスクア島(パスクアとう、スペイン語: Isla de Pascua)と言い、"Pascua"はスペイン語で復活祭(イースター)を意味する(後節も参照)。日本では英称由来の「イースター島」と呼ばれている。

面積は164km2、人口7750人の小さな島。モアイの建つ島として有名である。ポリネシアン・トライアングルの東端に当たる。最も近い有人島まで直線距離2000km余と、周囲にはほとんど島らしい島が存在しない絶海の孤島となっている。「ラパ・ヌイ」とはポリネシア系先住民の言葉で「広い大地」(大きな端とも)を意味する[注釈 1]。かつては、テ・ピト・オ・ヘヌア(世界のへそ)、マタ・キ・テ・ランギ(天を見る眼)などと呼ばれた。これらの名前は、19世紀の後半に実際に島にたどり着いたポリネシア人が付けたものである。
歴史詳細は「イースター島の歴史(スペイン語版、英語版)」を参照
ポリネシア人の移住

海底火山噴火によって形成された島に最初の移民がたどり着いた時期については諸説ある。文字記録がないため発掘調査における炭素年代測定が有力な調査手段とされ、従来は4世紀-5世紀頃とする説や西暦800年頃とする説が有力だったが、近年の研究では西暦1200年頃ともいう[4][5]。この移民は、はるか昔に中国大陸からの人類集団(漢民族の祖先集団)の南下に伴って台湾から玉突き的に押し出された人びと(→オーストロネシア語族を参照)の一派、いわゆるポリネシア人である。ポリネシア人の社会は、酋長を中心とする部族社会であり、酋長の権力は絶対で、厳然たる階級制度によって成り立っている。部族社会を営むポリネシア人にとって、偉大なる祖先は崇拝の対象であり、神格化された王や勇者たちの霊を部族の守り神として祀る習慣があった。タヒチでは、マラエと呼ばれる祭壇が作られ、木あるいは石を素材とするシンボルが置かれていたことからも、当時のラパ・ヌイでも同様に行われていたと想像できる。化石花粉の研究から、当時のラパ・ヌイは、世界でも有数の巨大椰子チリヤシの同種もしくは近縁種(Paschalococos(英語版)))が生い茂る、亜熱帯性雨林の島であったと考えられている[6]。初期のヨーロッパ人来航者は、「ホトゥ・マトゥア」という首長が、一族とともに2艘の大きなカヌーでラパ・ヌイに入植したという伝説を採取している。上陸したポリネシア人はと大型のネズミ、ラットを共に持ち込んで食用とした。
モアイの時代モアイ像

ジャレド・ダイアモンドらによれば、7世紀-8世紀頃にアフ(プラットホーム状に作られた石の祭壇)作りが始まり、遅くとも10世紀頃にはモアイも作られるようになったとされる。他のポリネシアの地域と違っていたのは、島が完全に孤立していたため外敵の脅威が全くなく、加工しやすい軟らかな凝灰岩が大量に存在していたことである。採石の中心は「ラノ・ララク」と呼ばれる直径約550mの噴火口跡で、現在でも完成前のあらゆる段階の石像が、散乱している彫る道具とともに残されている[6]。最初は1人の酋長の下、1つの部族として結束していたが、代を重ねるごとに有力者が分家し部族の数は増えて行った。島の至る所に、それぞれの部族の集落ができ、アフやモアイも作られていった。

モアイは、比較的加工しやすい素材である凝灰岩を玄武岩黒曜石で作った石斧を用い製作されていったと考えられており、デザインも時代につれ変化していった。第1期は人の姿に近いもので下半身も作られており、第2期は下半身がなく細長い手をお腹の辺りで組んでいる。第3期は、頭上に赤色凝灰石で作られた、プカオ(ラパヌイ語で髭あるいは髪飾り)と呼ばれる飾りものが乗せてある。第4期になって、いわゆる一般にモアイといって想像する形態(全体的に長い顔、狭い額、長い鼻、くぼんだ眼窩、伸びた耳、尖った顎、一文字の口など)を備えるようになった。18世紀になって西欧人が訪れるまで、島には銅器鉄器の存在は確認されていない。当時作られたモアイや墳墓石碑といった、考古学的に極めて重要な遺跡が数多く残されているが、この時期までが先史社会と考えてよく、ラパヌイ社会はこのあと転換期をむかえる[7]

よくモアイは「海を背に立っている」と言われているが、海沿いのものは海を背に、内陸部のものは海を向いているものもあり、正確には集落を守るように立てられている。祭壇の上に建てられたものの中で最大のものは、高さ7.8m、重さ80tにもなる。

現在、アフに立っている全ての像は、近年になって倒れていたものを立て直したものである[6]。 島の東端にある、島最大の遺跡「アフ・トンガリキ」(アフの長さ100m)の上には、高さ5mを超える15体のモアイが立ち並んでいるが、これも1994年に周辺に倒れていた15体の像を、考古学者のクラウディオ・クリスティーノが55tの重量に耐えるクレーンを使って立て直したものである。

過去には、島にはもともと、巨大な像を作って動かす技術や知識がなく、モアイは南アメリカからやって来た人々の力で建てられたという仮説が有力だった。しかし島民の遺骨のDNAには、島外起源の遺伝情報は見つかっていない。最近の研究により、モアイは島民が自力で建設し、移動させたことがわかっている[8]


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