イースタン航空401便墜落事故
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イースタン航空401便墜落事故事故機のイースタン航空 ロッキード L-1011-1(N310EA) 1972年3月
事故の概要
日付1972年12月29日
概要CFITパイロットエラー
現場 アメリカ合衆国フロリダ州エバーグレーズ
乗客数163
乗員数13
負傷者数75
死者数101
生存者数75
機種ロッキード L-1011 トライスター
運用者 イースタン航空
機体記号N310EA
出発地 ジョン・F・ケネディ国際空港
目的地 マイアミ国際空港
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イースタン航空401便墜落事故(イースタンこうくう401びんついらくじこ、: Eastern Air Lines Flight 401)とは、1972年12月29日アメリカ合衆国フロリダ州エバーグレーズで起きた航空事故である。

ニューヨークジョン・F・ケネディ国際空港)発マイアミマイアミ国際空港)行きのイースタン航空401便(ロッキードL-1011「トライスター」)が、マイアミ国際空港へ着陸するため降着装置を下ろしたところ、前脚がロックされたことを示す表示灯が点灯しなかった。進入を中断して自動操縦装置で空港付近を旋回し、前脚の状態を確認することにした。その際に機長が意図せず操縦輪に力をかけたことで自動操縦の高度保持機能が解除され、緩やかな降下が始まった。操縦室の全員が前脚の問題に集中してしまい、誰も飛行状態を監視しない状況が生じた。その結果、手遅れになるまで降下に気付かず、そのまま湿地帯に墜落した。搭乗者176名中101名が死亡した。

再発防止策として危険な高度の航空機に管制官が警告できるように最低安全高度警報 (MSAW) が開発された。また、本事故以前のCFIT事故の教訓と合わせて対地接近警報装置 (GPWS) の開発が促された。さらに、本事故と類似の人的要因が関わる事故が続いたことでCRM[注釈 1]が提唱されることになった。
事故当日のEA401便.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}JFKMIA EA401便の出発地であるジョン・F・ケネディ国際空港 (JFK) と目的地であったマイアミ国際空港 (MIA) の位置。事故機はマイアミ空港の近くに墜落した。

イースタン航空401便(以下、EA401便)は、ジョン・F・ケネディ国際空港発、マイアミ国際空港行きの定期旅客便だった[1][2]

1972年12月29日のEA401便は、ロッキードL-1011「トライスター」で運航されていた[3]。トライスターはこの年に就航開始したばかりの新鋭機で[3]、左右の主翼下と機体尾部にそれぞれ1発ずつ、計3発のターボファンエンジンを備えたワイドボディ旅客機である[4]。使用機材の機体記号は「N310EA」だった[5]。この飛行機は同年8月にイースタン航空に納入され、事故までの飛行時間は936時間、飛行回数は502回だった[5]

EA401便の運航乗務員は機長副操縦士(ファースト・オフィサー)、航空機関士(セカンド・オフィサー)の3名だった[6][7]

機長は55歳で、1940年にイースタン航空に入社した[7]。1942年に旅客機の乗務資格を取得し、1951年に機長に昇格した[7]。複数機種の乗務資格を経て、1972年の春から夏にかけてトライスターの乗務資格を取得した[7]。彼は総飛行時間が29,700時間というベテランパイロットで[8]、トライスターでの飛行時間は280時間だった[7]

副操縦士は39歳で、アメリカ空軍での経験を経て1959年にイースタン航空に入社した[7]。当初は航空機関士として乗務し、1971年12月に副操縦士となった[7]。翌1972年にトライスターへの転換訓練を受けて6月に完了した[7]。総飛行時間は5,800時間、トライスターでの飛行時間は306時間だった[7]

航空機関士は51歳で、1947年に航空整備士としてイースタン航空に採用された[7]。1955年に航空機関士の資格を取得し、1972年10月から12月にかけてトライスターへの転換訓練を完了した[7]。総飛行時間は15,700時間、うちトライスターでの飛行は53時間だった[7]

加えてこの日は、整備技術者1名がコックピットの補助席に同乗していた[9][10][11]客室乗務員は10名、乗客は163名(前述の整備技術者を含む)が搭乗していた[12][13]


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