イージー・イー
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Eazy-E
Eazy-E 1993年
生誕Eric Lynn Wright
(1964-09-07) 1964年9月7日
アメリカ合衆国 カリフォルニア州コンプトン
死没1995年3月26日(1995-03-26)(30歳)
カリフォルニア州ロサンゼルス
職業

ラッパー

ソングライター

配偶者Tomica Woods (m. 1995)
子供11人
音楽家経歴
ジャンルHip hop, gangsta rap
活動期間1986年?1995年
レーベルRuthless, Priority, Relativity, Epic
共同作業者N.W.A, Naughty by Nature, Bone Thugs-n-Harmony, Dresta, The D.O.C., Kokane, Cold 187um

エリック・リン・ライト(Eric Lynn Wright[1][2]1964年9月7日 - 1995年3月26日)はイージー・イー(Eazy-E)の芸名で知られるアメリカ合衆国音楽プロデューサーラッパー実業家ヒップホップ・グループN.W.A.での活動のほか、ソロ活動、レコード・プロデュース、レーベル経営を行った。ファンからは、「ギャングスタ・ラップのゴッドファーザー」とも呼ばれことがあった。カリフォルニア州コンプトンで生まれ、10年生の時に高校を退学し、主に麻薬の売買で生計を立て、その後ルースレス・レコードを設立。イージーはラッパーとなった。

ルースレスのアーティストであるアイス・キューブが「ボーイズ・ン・ザ・フッド」を書くと、イージーは、アイス・キューブとドクター・ドレーとともにN.W.A.を結成。後にDJイェラ、MCレン、アラビアン・プリンスがグループに加わり、N.W.A.はアルバム『N.W.A.アンド・ザ・ポッセ』をリリースした。

1988年に最大のヒット作であり、問題作ともなった『ストレイト・アウタ・コンプトン』を発表。イージーがドクター・ドレーを契約から解放した後、グループはさらに二枚のアルバムを発表し、その後解散した。イージーが影響を受けたのは主に1970年代ファンク・グループ、同時代のラッパー、そしてコメディアンたちである。音楽批評家の一部は、イージーの持つ独特のラップ・スタイルを評価した。NWAの代表曲には「アイド・ラザー・ファック・ユー」などがあり、同曲はイージーEのベスト盤にも収録されている。
来歴

イージー・イーこと、エリック・リン・ライトは1964年9月7日、ギャングの活動と犯罪で悪名高いカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のコンプトンに生まれた。[3][4][5]

父親は郵便局員、母親は小学校の関係者だった。ライトは高校を中途退学したが、後に高校卒業資格を取得している。ライトはN.W.A以前は主に麻薬を売ることで生計を立てていた。後にN.W.Aのマネージャーとなるジェリー・ヘラーは、ライトがマリファナを売っていたことは認めたが、コカインは売っていなかったとしている。ヘラーが回想録『ルースレス』で述べているように、ライトが「ドープ・ディーラー」として振る舞っていたのは自分自身の身を守るためでもあった。ライトはまた「サグ(Thug。暴漢・チンピラの意)」としても知られていた。

ヘラーは以下のように語っている。

ストリートでは誰もが仮面をつけなくてはならなかった。丸腰で生き延びた者はいない。役柄が必要である。「サグ(Thug)」か、「ラッパー(Playa)」か「アスリート」、「ギャングスタ(Gangsta)」か、「麻薬の売人(Dope Man)」のどれかになることになる。さもなければ残された役目は「犠牲者」だ。

「彼の育った地区は危険な場所だった。彼は身長が低かった。"サグ"というのはストリートでは広く認識された役割だった。それは、人々があなたをファックするのを防いでくれる。同様に、"ドープ・ディーラー"という役割もあなたに一種の特権と尊敬を与える」

1986年、22歳のときに、ライトは25万ドル(4200万円)を麻薬売買で稼いでいたとされる。しかし、いとこが銃殺されたことをきっかけに、当時急速に成長していたロサンゼルスのヒップホップ・シーンでもっといい暮らしができると考え、1980年代中期に親のガレージで曲をレコーディングし始めた。イージーとジェリー・ヘラーが出資して、「Ruthless Records」が設立された。[6]

「Ruthless Records」は、ライトが80%、ヘラーが20%の取り分で共同設立された。ヘラーによるとライトは最初に25万ドル(4200万円)、最終的には100万ドル(1億6800万円)を会社に投資したという。

N.W.Aは、ドクター・ドレーアイス・キューブが"Boyz-n-the-Hood(英語版)"を作った時に結成された。メンバーには後にDJイェラ、MCレン(英語版)、アラビアン・プリンス(英語版)も加わった。コンピレーション・アルバムである『N.W.A. and the Posse(英語版)』は1987年11月6日にリリースされ、ゴールド(50万枚)となった。

翌年、1988年9月16日にはイージーのデビュー・アルバム『Eazy-Duz-It(英語版)』がリリース。当時の宣伝文句は「ウエスト・コースト・ヒップホップギャングスタ・ラップ、ヒップホップの黄金時代」だった。売れ行きはアメリカ国内だけで250万枚以上、ビルボード200では41位まで上がった。プロデュースはドクター・ドレーとDJイェラが行い、リリックの多くはMCレン、アイス・キューブ、ザ・D.O.C.が書いた。

『Eazy-Duz-It』はN.W.A最大の問題作『Straight Outta Compton』への道を切り開いた。その中のイージーのソロ曲は『8 Ball』のリミックスのみで、元々は『N.W.A and the Posse』の中の曲だった。『Straight Outta Compton』でイージーは8曲でラップし、4曲の作詞を手伝った。しかしリリース後、グループ内の対立によりアイス・キューブが脱退、グループは4人組で続くことになった。

N.W.Aは1991年にミニ・アルバム『100 Miles and Runnin'(英語版)』とアルバム『Niggaz4Life(英語版)』を発表。シングル『100 Miles and Runnin'(英語版)』と『Real Niggaz』がリリースされると、N.W.Aとアイス・キューブの間でお互い歌での罵り合いが始まる。アイス・キューブは死刑に関する曲『No Vaseline』で応戦している。イージーはアルバム『Niggaz4Life』の12曲のうち7曲でラップしている。

1991年3月、イージーは当時のアメリカ合衆国大統領ジョージ・ブッシュから共和党の昼食会に招待された。イージーの代理人は、湾岸戦争においてイージーのラップ作品が兵士たちのストレス発散の役割を果たしたことで、彼は大統領を助けたとしている。

ジェリー・ヘラーがバンドのマネージャーになると、N.W.Aは徐々に不仲となった。ドクター・ドレーは「ジェリー・ヘラーがかかわるようになって亀裂が入った。彼は分割統治ゲームを支配したんだ。みんなを世話するんじゃなく、一人だけを依怙贔屓して、その対象がイージーだった。イージーは"俺はいい目を見てるんだから、それでいいや"ってなもんだった」と当時の様子を振り返っている。

ドレーはイージーとヘラーの関係を疑い、シュグ・ナイトを送り込んでイージーの経済的状況を調べさせた。ドレーは「Ruthless Records」と自分との契約を解除してくれるようにイージーに頼んだが、イージーは拒絶した。そして、『Niggaz4life』レコーディング中のスタジオでシュグ・ナイトとイージーの間で修羅場が起こる。イージーが頑としてドレーの解放を断ると、シュグ・ナイトはヘラーを車に監禁してあるんだぞとイージーに言った。それでもイージーはドレーを手放すことを拒んだので、ナイトはイージーに、イージーの母の住所が書いてある紙切れを見せながら「お前の母親がどこにいるか知ってるぞ」と脅迫した。さすがのイージーも書面にサインせざるを得ず、とうとうN.W.Aは解散に追い込まれた。

ドレーの処女作『The Chronic』[7]の中の一曲にイージーを侮辱するリリックが含まれていたため、イージーとドレーの仲たがいは続いた。


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