イヴァーノ=フランキーウシク
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イヴァーノ=フランキーウシク
?вано-Франк?вськ


市旗市章

愛称 : 小リヴィウ
位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯48度55分0秒 東経24度43分0秒 / 北緯48.91667度 東経24.71667度 / 48.91667; 24.71667
歴史
建設16世紀
行政
 ウクライナ
 行政区画 イヴァーノ=フランキーウシク州
 市イヴァーノ=フランキーウシク
地理
面積 
  市域83.73 km2
人口
人口(2022年現在)
  市域238,196人
    人口密度  2,752人/km2
その他
等時帯東ヨーロッパ時間 (UTC+2)
夏時間東ヨーロッパ夏時間 (UTC+3)
郵便番号76000
市外局番+380 342
ナンバープレートАА
公式ウェブサイト : ⇒http://www.mvk.if.ua/

イヴァーノ=フランキーウシク(ウクライナ語:?вано-Франк?вськ[1] [i?w?no fr?n?kiu?s?k] ( 音声ファイル))は、西ウクライナに位置する都市で、イヴァーノ=フランキーウシク州州庁所在地である。歴史上では、スタニスラーヴィウまたはスタニスラーウ(ウクライナ語: Станислав?в / Стан?слав、ロシア語: Станиславов / Станислав スタニスラーヴォフまたはスタニスラーフ、ポーランド語: Stanis?awow スタニスワヴフ、ドイツ語: Stanislau シュターニスラウ)とも呼ばれた。
地理

イヴァーノ=フランキーウシクは、イヴァーノ=フランキーウシク州の東北、ウクライナのカルパティア山脈にあるポクッチャ平野でブィストルィツャ・ナドヴィルニャンシク川とブィストルィツャ・ソロトヴィンシカ川が合流する所に位置している。

1662年から1939年までイヴァーノ=フランキーウシクは、スタニラーヴィウと呼ばれていたが、1939年にソ連によってスタニスラーウに改名された。さらに、1962年11月9日にウクライナ作家イヴァン・フランコにちなんでイヴァーノ=フランキーウシクと名づけられた。愛称は「小リヴィウ」。

気候は大陸性気候である。1月の平均気温は-5°C、4月は+12°C、7月は+19°C、10月は+2°Cとなっている。
歴史

16世紀ウクライナ人が住むザボロトニャ村とクニャーグヌィン村の場所で創立される。

1654年ポーランドの貴族、ポトツキ家によって要塞が築城される。

1662年:ポーランドの王より、自治権が下賜される。

1665年アルメニア人の教会が建立される。アルメニア人の人口が増加する。

1666年:市役所が建立される。市の東北部ではウクライナ人とポーランド人、南部ではアルメニア人、西部ではユダヤ人が住むという市区の区分が定められる。

1669年クラクフ大学の支校、タルノフスキ・カレッジが創立される。

1772年オーストリア帝国の領土となる。

1848年オーストリア革命の影響によって、ウクライナ人を中心に「ルーシ・ラーダ」という市の議会が創立される。

1866年鉄道が開通する。

1915年 - 1916年第一次世界大戦中、オーストリアとロシア両軍の戦いで大きな損害を受ける。

1918年オーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴って西ウクライナ人民共和国の領土となる。

1919年:西ウクライナ人民共和国の首都となるが、まもなくポーランド軍に占領され、西ウクライナ全体もポーランドの領土となる。

1939年ソ連軍によって占領され、ウクライナ・ソヴィエト社会主義共和国の領土となる。市名はスタニスラーウに改称。市内のポーランド人全員と独立派のウクライナ人に対して迫害が始まる。

1941年第二次世界大戦中、ドイツ軍によって占領される。ユダヤ系市民への迫害が始まる。

1942年:反独・反ソのウクライナ蜂起軍のゲリラ組織が成立し、軍の部隊が市周辺で活躍する。

1944年:ソ連軍によって再占領される。ウクライナ人、特にウクライナ蜂起軍の支持者に対する迫害が始まる。

1962年:市名はウクライナ作家イヴァン・フランコにちなんでイヴァーノ=フランキーウシクと改名される。

1990年:反ソ運動が盛んになる。市役所はウクライナの国旗を上げる。

1991年:ウクライナが独立する。市は、イヴァーノ=フランキーウシク州の州庁所在地となる。

人口

2001年:218,400人[2]

ウクライナ人は約97%、その他は3%。

母国語:ウクライナ語は約98%、ロシア語は2%以下

男性は47%、女性は53%


姉妹都市

バヤ・マレルーマニア 1990年

ジェシュフポーランド 2000年

フシャヌフポーランド 2001年

ジェロナ・グラポーランド 2001年

セルプホフロシア 2001年

リブニクポーランド 2001年

オラデアルーマニア 2003年


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