ソビエト連邦の官僚イヴァン・ミハイロヴィチ・モスクヴィンИван Михайлович Москвин
NKVDに逮捕された際のモスクヴィン
生年月日 (1890-01-28) 1890年1月28日
出生地 ロシア帝国トヴェリ県
イヴァン・ミハイロヴィチ・モスクヴィン(ロシア語: Иван Михайлович Москвин、1890年1月28日 - 1937年11月27日)は、ロシアの革命家・ソビエト連邦の官僚。
生涯(ロシア語版)トヴェリで[1]商店員の家庭に生まれた[2]。ペテルブルク鉱業学院を中退して1911年からボリシェヴィキ党員となり、翌1912年から1914年まで党ペテルブルク委員会で活動し、繰り返し逮捕された[2]。第一次世界大戦前には党中央委ロシア局員 (ru) でもあった[3]。1917年には党ペトログラード市鉄道地区委を率い[1]、十月革命時にはボロトノイ通りでの武装蜂起会議に参加している[3]。1919年にはペトログラード市委およびペトログラード県(ロシア語版)執行委でも働いた[2]。同年5月からは党県委部長、ペトログラード鉄道政治部会計・流通責任者を務め、1921年からペトログラード委部長[2]、同年4月からはペトログラード県管理部部長、10月からは党県委組織部部長、1923年5月からは党中央委北西局組織部部長および副書記を歴任[1]。1923年4月25日から1927年12月2日までは党中央委員候補であった[1]。
1924年から1926年までは党中央委北西局書記および再度の組織部部長を務めた[1]。ペトログラードではグリゴリー・ジノヴィエフに次ぐ党のナンバーツーとなったが、しかしモスクヴィンはヨシフ・スターリンの派閥に付いてジノヴィエフを攻撃する側に回っている[3]。同年からモスクワに移り[3]、3月25日から1930年1月5日まで党中央委組織・配分部部長を務めた[1]。モスクワでニコライ・エジョフに気に入られたモスクヴィンはさらに出世コースを歩み[3]、1927年12月19日から党中央委書記局員候補を1932年10月2日まで、中央委員および中央委組織局員(英語版)を1934年1月26日まで務めた[1]。1930年1月5日から11月14日までは、中央委行政・経済・労組人事配分部部長でもあった[1]。同年11月からはエジョフによって[3]ソビエト連邦国民経済最高会議(ロシア語版) (ru) 副議長および人事局局長に据えられ、1932年2月まで勤めている[1]。同月から1935年までは連邦重工業人民委員部 (ru) 人事局局長、1934年2月11日から1937年6月28日までは連邦人民委員会議附属ソビエト統制委 (ru) メンバー(1935年から同委重工業グループ長)も歴任した[1]。
同僚の言によればモスクヴィンは非常に勤勉実直で、酒も煙草もやらず、趣味もなく、下品な言葉も冗談も嫌う人間であったという[3]。また、チェキストであるグレブ・ボキー(英語版)の元妻とも結婚していた[3]。しかし、モスクヴィンは1937年5月16日にフリーメイソンのロッジを組織して国家転覆を図った容疑で逮捕された[3]。そして6月28日に統制委および党から除名され、7月13日にエジョフが署名した令状によって再逮捕され[3]、11月27日に連邦最高裁軍事参議会(ロシア語版)によって死刑を宣告され、同日処刑された[4]。その後、モスクヴィンは1956年7月に名誉回復(ロシア語版)が、10月に党籍回復がなされた[4]。
脚注^ a b c d e f g h i j “ ⇒Москвин Иван Михайлович”. Справочник по истории Коммунистической партии и Советского Союза 1898 - 1991. 2016年9月12日閲覧。