イヴァン・スラツィミル
[Wikipedia|▼Menu]

イヴァン・スラツィミル
Иван Срацимир
16世紀後半に描かれた肖像作者不明
在位1356年 - 1396年

出生1324年/25年
ロヴェチ
死去1397年
ブルサ
配偶者アンナ
子女ドロテア、コンスタンティンなど
家名シシュマン家
王朝第二次ブルガリア帝国
父親イヴァン・アレクサンダル
母親テオドラ
テンプレートを表示

イヴァン・スラツィミル(ブルガリア語: Иван Срацимир、1324年/25年 - 1397年)は、ブルガリアヴィディン君主(在位:1356年 - 1396年)。ブルガリア皇帝イヴァン・アレクサンダルの次男。当時ブルガリアに存在していた第二次ブルガリア帝国から独立した勢力を形成していた。

イヴァン・アレクサンダルがイヴァン・スラツィミルの異母弟イヴァン・シシュマンを後継者に選んだ後、イヴァン・スラツィミルは領地のヴィディンに移って皇帝を自称した。ヴィディンがハンガリー王国の攻撃を受けて占領された時、イヴァン・スラツィミルはアレクサンダルから支援を受けてハンガリー軍を撃退した。1371年にアレクサンダルが没した後、イヴァン・スラツィミルは帝国の首都タルノヴォとの繋がりを絶つ。また、タルノヴォからの独立の意思を明確にするためにブルガリア正教会に代えてコンスタンディヌーポリ総主教庁に接近し、コンスタンディヌーポリ総主教庁の下に大主教を置いた。オスマン帝国バルカン半島侵攻に際しても、イヴァン・スラツィミルが支配するヴィディンは位置上オスマン軍の攻撃を直接受けることは無く、イヴァン・スラツィミルはイヴァン・シシュマンが呼びかけた反オスマン闘争に参加しなかった。

1393年にタルノヴォが陥落した後、イヴァン・スラツィミルはオスマン帝国への臣従を破棄し、ハンガリー王ジグモンドが提唱した反オスマン連合軍に参加する。だが、1396年ニコポリスの戦いで連合軍は大敗した後、ヴィディンはオスマン帝国の占領下に置かれる。捕縛されたイヴァン・スラツィミルはブルサに投獄され、この地で絞殺されたと考えられている。

イヴァン・スラツィミルの息子のコンスタンティンはブルガリア皇帝を自称し、一時はイヴァン・スラツィミルが支配していた土地の大部分を統制下に置いた。

南極トリニティ半島に位置するスラツィミル丘の名前は、イヴァン・スラツィミルに由来する[1]
生涯Constantine Manassesの写本に描かれたイヴァン・スラツィミルの肖像画
若年期

1324年/25年に、ロヴェチの僭主イヴァン・アレクサンダルとその妻テオドラの次男としてイヴァン・スラツィミルは誕生する[2]。イヴァン・アレクサンダルがブルガリア皇帝となった後、1337年にイヴァン・スラツィミルは兄弟のミハイル、イヴァンと共に父の共同統治者に指名された[3]。しかし、それぞれの息子たちの特権が明確に定義されていなかったため、兄弟間に対立が起こり、ブルガリアに危機をもたらすことになる[2]。共同統治者に指名された後、イヴァン・スラツィミルはヴィディンを領地として与えられる。

1340年代に入り、イヴァン・アレクサンダルの長男ミハイルには10年以上子供が生まれておらず、すでに妻との間に子供をもうけているイヴァン・スラツィミルが後継者候補として注目を浴びはじめる。1352年にイヴァン・アレクサンダルは帝位の継承を円滑かつ安全に行うため若帝(junior emperor)の称号を創設し、イヴァン・スラツィミルに若帝の称号が与えられた[4]1347年末/1348年初頭にイヴァン・アレクサンダルはユダヤ人女性サラと結婚するため、最初の妻テオドラと離婚し、彼女を修道院に入れた。この出来事はイヴァン・スラツィミルとイヴァン・アレクサンダルの仲を悪化させ、1350年/51年にイヴァン・アレクサンダルとサラの間にイヴァン・シシュマンが生まれると、親子の対立はより顕著になる[5]

1355年/56年に後継者と目されていたミハイルがオスマン軍との戦闘で落命すると、帝位を巡る争いの激しさは頂点に達する[6]。ブルガリア皇室の相続制度では、本来イヴァン・スラツィミルがミハイルに次ぐ帝位継承者となるが、イヴァン・アレクサンダルは帝位に就いた後に生まれたイヴァン・シシュマンを後継者に指名した[4][6]。親子の確執は激しく、イヴァン・アレクサンダルの時代に出版された聖書の写本(アレクサンダル福音書)には、彼の娘婿も含めた当時のブルガリア皇室の人間の肖像画が収録されているが、その中にイヴァン・スラツィミルの肖像画は含まれていない。

父から勘当されたイヴァン・スラツィミルは領地のヴィディンに戻り、この地で皇帝を自称した(あるいは帝位継承権を没収された補償として父から与えられたヴィディンの統治者の地位に就いた)[4][7]
ハンガリーによるヴィディン占領

1356年にイヴァン・スラツィミルはヴィディンで皇帝を称し、イヴァン・アレクサンダルと同じ「ブルガリア人とギリシャ人の皇帝」の称号を使用した。ワラキアとの同盟関係を構築するため、1356年/57年にイヴァン・スラツィミルは自分の従姉妹にあたるワラキア公女アンナと結婚する[6]。この婚姻の背景にはイヴァン・スラツィミルの生母テオドラの存在があり、彼女は夫への報復としてヴィディンとワラキアの同盟の成立を助けたと考えられている[8]

「ブルガリア王」を自称するハンガリー王ラヨシュ1世がヴィディンに臣従を求めたとき、イヴァン・スラツィミルはイヴァン・アレクサンダルの暗黙の了解を得て、1365年までラヨシュ1世の宗主権を承認した。しかし、1365年5月にハンガリー軍はブルガリアに進軍し、短期の包囲を追えて6月2日にヴィデインを占領した[9]。ヴィディンの陥落から3か月後、ヴィディンを除いたイヴァン・スラツィミルの領地もハンガリー軍の占領下に置かれる(ハンガリーによるヴィディン占領)。捕らえられたイヴァン・スラツィミルと彼の家族は現在のクロアチアに位置するHumnik城に監禁され、ヴィディン帝国の領地はハンガリー王国が任命したバン(総督)によって直接統治を受けた[6][7]。イヴァン・スラツィミルは4年間ハンガリーの保護下で暮らし、彼と家族はカトリックへの改宗を余儀なくされ、ハンガリー王国はフランシスコ会宣教師をヴィディン帝国に派遣した。フランシスコ会の宣教師によって200,000人以上の住民、あるいは帝国の人口の3分の1がカトリックに改宗したことをハンガリー側の史料は誇らしげに記しているが、この活動はブルガリア人の間に大きな不満をもたらし、最終的に布教は失敗に終わる[10]

名目上のヴィディンの領有者であるイヴァン・アレクサンダルは、当初ヴィディン僭主国の回復に積極的ではなかった[11]。だが、1369年にイヴァン・アレクサンダルはワラキア公ヴラディスラヴ1世とドブルジャの僭主ドブロティツァを加えた東方正教の連合軍を結成し、ヴィディン奪回のために進軍する。カトリック教会の聖職者とハンガリーの支配に対する民衆の蜂起に助けられて連合軍の攻撃は成功を収め、ラヨシュ1世はやむなくヴィディンの領有権を放棄し、1369年にイヴァン・スラツィミルはヴィディンの支配を回復した[9][11][12]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:45 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef