インブリー館
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インブリー館
外観(2009年撮影)
情報
用途学校同窓会事務室、教員用の会議室
旧用途ウィリアム・インブリーの個人住宅
設計者不明
構造形式木造2階建、銅板一文字ぶき、外壁下見板張り
建築面積150.8 m²
延床面積301.3 m²
階数地上2階
竣工1889年明治22年)か1890年(明治23年)
改築1997年(平成9年)
所在地 日本
東京都港区白金台1-2-37
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度38分15秒 東経139度43分52.5秒 / 北緯35.63750度 東経139.731250度 / 35.63750; 139.731250 (インブリー館)座標: 北緯35度38分15秒 東経139度43分52.5秒 / 北緯35.63750度 東経139.731250度 / 35.63750; 139.731250 (インブリー館)
文化財重要文化財(国指定)
指定・登録等日1998年平成10年)12月25日
備考明治学院大学白金キャンパス構内に位置する。
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創建されてまもない時期のインブリー館。手前に人力車が見える暖炉用の煙突は1963年の火災後に取り払われたが、1996-97年の大幅改修工事で復元された

インブリー館(インブリーかん、英語: Imbrie Pavilion[1]もしくは英語: Imbrie Hall[2])は、宣教師明治学院神学部教授のウィリアム・インブリーが長年住んでいたことで知られる日本東京都内に現存する最古の宣教師館であり、明治学院大学白金キャンパス構内に位置する。1964年(昭和39年)に「ひきや」された後はおもに学院の同窓会事務所や教員用の会議室として利用されている。

1998年平成10年)に国の重要文化財に指定された。
歴史

1887年明治20年)に明治学院白金の地に開校したのと前後して[3]学院で教える宣教師たちのために構内の西北隅に3棟、構内の東南隅に2棟の西洋館が建築された[4]。彼らが住む築地外国人居留地から学院まではあまりにも遠すぎるので、学院側が住宅を準備する必要に迫られたためである[5][6]。この5棟のうち唯一現存するのが当館である[7]東京大学教授の鈴木博久はその創建年を1889年(明治22年)か1890年(明治23年)のどちらかと推測している[8]

明治学院の最初の入学生の一人である島崎藤村小説『桜の実の熟する時』(1919年)の中で学院生活を描写しているが、「三棟並んだ西洋館」のうちの一つとして当館が登場する[9]。向うの講堂の前から敷地つづきの庭にかけて三棟並んだ西洋館はいづれも捨吉が教を受ける亜米利加人の教授たちの住居だ。白いスカアトを涼しい風に吹かせながら庭を歩いて居る先生方の奥さんも見える。[6][10]

創設後7-8年間は宣教師のマコーレーが入居して生活していたのではないかと推測されている[5]。その後に1897年(明治30年)の再訪日から1922年(大正11年)に帰国するまで同じく宣教師のウィリアム・インブリーが住んでいた[10]太平洋戦争後に武藤富男(元学院長)が彼にちなんで館の名前を「インブリー館」と命名した[6]

この他にも学院関係者の公宅や住宅として長い年月使用されてきた[11]。また、戦後の混乱期に屋根裏まで使って数世帯が居住していた時期もあった[9][12]。大正と昭和に起きた二度の火災によって一部に焼損を受けている[13]

1964年(昭和39年)に東京オリンピックの開催に備えて[14]校地に接する国道1号線の拡幅が実施され[15]、創建時の場所から現在の場所へ200mほど「ひきや」された[16]。これ以後はおもに学院の同窓会事務室や会議室として利用されている[17]

1994年(平成6年)7月から1995年(平成7年)1月まで東京大学工学部建築学科建築史研究室を中心に、同大学教授の鈴木博久の指導で建物とその建物に関係ある人々およびキャンパスなどの歴史的調査が行われて多くの資料が作成され、その内容も報告された[18]。それから半年後の1995年7月から11月には建物の軸組みだけを残して内外装材を一時取り外し、建物の仕様および使い勝手や間取りの変遷などの調査が(財)文化財建造物保存技術協会によって行われた[18]。この時の調査資料をもとにして、創建時に近い形でありながら、現在の居室空間としても問題のない環境を創造するべく工夫して設計され、1996年(平成8年)5月から1997年(平成9年)9月まで慎重を期して改修復元工事が行われた[18]。なお、改修工事はこれ以前にも何回か行われているが、その詳細は明らかになっていない[11]

1998年(平成10年)12月25日に「明治期に来日した外国人宣教師用の最初期の事例として、我が国にとって価値が高いもの」として国の重要文化財に指定された[19]。さらに、2002年(平成14年)には明治学院記念館や明治学院礼拝堂(チャペル)とともに「東京都港区景観上重要な歴史的建造物等」の指定を受けた[15]

2012年(平成24年)に再塗装工事が完了した[6]

東京都内に現存する最古の宣教師館であり、日本では二番目の古さと言われている[6][7]
建築2階の部屋はおもに教員用の会議室として利用されている黒光りした階段が歴史の重みを醸し出す

建物の建築面積は150.8m2で延べ床面積は1階129.79m2、2階136.75m2、小屋裏36.79m2、計301.30m2である[20]。設計者はランディスあるいはガーディナーといった名前が上がるが、決め手になっていない[8]。19世紀後半にアメリカ合衆国で流行した木造住宅様式を集めたパターンブックをもとに外国人が設計したと考えられている[3]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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